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2009年4月

2009年4月30日 (木)

17)、スイスの田舎ホテルと、アルプスの山々。Switzerland country hotel, while watching the peaks of the Alps.

『 6月13日(月) 今日は充実した日であった。朝方、曇ってはいたが直後に晴れわたり、ジュラ山脈 が綺麗であった。ビーラー湖、ヌーシャテル湖 とも 好天のせいもあって素晴らしい。暖かな一日であり、ここに来て初めて足から塩が吹いた(白くなった)。なめて確かめてみる。確かに塩っ辛い!』
『 レマン湖畔にある(ローザンヌ直前の)小高い丘にあった田舎ホテル(40フラン)に宿泊。 フランス語が常用らしくドイツ語・英語共に通じないが、朝食付きであることは理解できた。 ここで初めてバスタブを使用。日本人の私は、シャワーよりもバスタブの方が好きだ。満足、満足!
『 欲を言えばキリはないが、バスタブは身体を温めるだけにし、外のスノコ板(欧州には無い)の上で、ゆっくり洗いたいところだ( しかし、これは望む方が無理)。安い宿はシャワーやトイレさえ共同使用が一般的。
『 一階はパブ兼レストランとなっていて、スイス軍隊服を着たお兄ちゃん3人を捕まえて、一緒にビールを飲んだ。 彼らはドイツ語・フランス語・ロマンシュ語・イタリア語の四か国語を話すとのこと。それを英語でしゃべっているのだから、五か国語に通じていることになる。
「 スイスは山国ではあるが、意外に平坦だ。マッターホルンとかモンブランなどの山々があまりに有名で、日本人は皆、スイスは山ばかりだと思っている。しかし、走ってみて、平らな場所が少なくないということが、この2日間でよく分かった。日本の方がはるかに山が多く、平野が少ない。」 こんな事をビールを飲みながら、しゃべった。』
  (6月14日)、
 小高い丘にあった田舎ホテルを出たあと、ジュネーブまで風まかせに走った。 いきなりガット(GATT)の看板と建物を路上で目にした時には、中学校の教科書世界に飛び込んだような感慨を受けた。とにかく綺麗な美しい都市であった。
ローザンヌへの帰り道は電車としたが、駅員に自転車を取り上げられて当惑した。(本当にローザンヌで自転車を受け取れるかどうか不安でたまらなかった)。 結果的には自転車は返されたが、こういうトラブル時に、現地語(ジュネーブはフランス語)がうまく喋れないと不安はつのるものだ。
 車窓からレマン湖を眺めている内に急に薄雲が晴れわたり、湖の向こうにモンブランもあるであろうアルプス山脈がくっきりと現われて来た。凄いスピードで林や民家が間を遮るので、シャッターを切ることも出来ずに、ただ眺めている。「こんなことなら、帰りも自転車にすべきだった」と、欲張りの後悔をした。
  アルプスの山々
 6月15日 6:57  レマン湖畔のユースにて朝食を待っている。素晴らしい朝だ。アルプスが光り輝いている。早く出発したい!
9:51 「あれがモンブランか?」と、雪山が現れる度に聞いた。「モンブランはその後ろに隠れている。あれは3257mの小さな山だ。もう少し南に下れば見えるだろう」 少し前進する。 向こうの方に、もっと高い雪山が見えて来た。
10:19  山間から大砲を撃ったような轟音が響いて来た。雪崩でも起こったのだろうと、勝手に想像する。 何度も聞こえてくる。 鉄砲の音がこだましているだけかも知れない。 玉のような汗が流れる。 さっき追い越した兄さんが、今度は私を追い越して行った。「ボンジュール」
15:12  シオンの町にやって来た。 立ち昇るのは雲のみではない。4機も、6機も、ジェット戦闘機が飛び出していく。 空を舞う。 丘の向こうにスイス空軍基地があるらしい。
16:34  ちょっと暑いけど絶好のサイクリング日和りである。空は青く澄み渡り、雲が雪山をかすめて行く。 追い風だ。 もう少しでシリオンの町だ。
17:38  360度全天パノラマだ。カメラに収まらない!
 
遥か彼方に三角帽子の形をした雪山が見えて来た。道路行く手、真っすぐ向こうだ。 『多分あの辺りの麓(ふもと)がブリッグの町であろう。』、と想像した。 その町が今日の目的地であり、明日のアルプス越えの出発点となる。 宏は走りに走った。 幸いにも追い風! 道はわずかに登り坂ではあるが、負担にはならない。 その三角帽子の雪山は、少しずつ、少しづつではあるが、大きくなって来る。
 道路の両脇には背の高い並木がならび、リズミカルに自転車のそばを過ぎて行く。 その並木の間から、夕日を浴びた山々が刻々と色と形を変えていく。 昼間あった雲はほとんど消え、雪山は光り輝いている。 さらに自転車は進む。
 野中の一本道のそばに小さな水路が並行して走っている。 その水路の橋の上で、宏は小休止を取った。 三角帽子の雪山は、水路の向こうにどっかと陣取っている。 その山は「目」を持っていた。「一つ目のおばけ」、とも想像したが、妙に愛嬌がある。「白マントの人」のようにも見える。 車はほとんど走らない。静かだ。夕日だけがギラギラと後方から照りつけている。
  更に走った。 わずかに道は左に曲がり、三角帽子の雪山が見えなくなった。 右手より小川が流れ来ている。 小川に沿って登山電車の線路が谷間を登っている。幅の狭い小川だが流れは早く、石を積み上げた土手も高い。雪解け水がまだ流れているのだろうか、川底の小石が一つ一つ見えるほどに透明度が高い。 宏は路辺の素朴な水飲み場で、頭から水をかぶった。
 風はひんやりとして、短パンの足に心地よい。 もうブリッグの町は近いのだろう。『 この山向こうがシンプロン峠への道かもしれない。そろそろ宿探しをはじめなければ・・。』  この山の中での野宿は(宏の持つ薄い寝袋では)凍え死ぬ危険性がある。 ブリッグまで、あと10キロは有りそうだった。 『その間にペンションでもあれば泊まろう。』と思いつつ、勢い良くペダルを踏み出していった。

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2009年4月29日 (水)

16)、挨拶(あいさつ) exchange greetings

 ヨーロッパの人々は皆陽気だ。 この旅を始めて間もないある朝、宏は例の如く道に迷いつつも「 多分こっちの方向!」と、田舎町の明るい住宅街を走っていた。 簡単な木の柵が庭と道路とを隔てている。 前方にかなり年配のおばさん二人が、井戸端会議を行っている。その笑い声は遠くからも聞こえた。 宏は近づくと、何時もの様に気軽に挨拶(あいさつ)しながら、自転車を止めた。 声のした方向に振り向きながらも彼女達は まだ、ほがらかに笑っている。
「 道に迷ってしまった。ここはどの辺り?」と、地図を示しつつ聞く。 こういう場合、地図を真面目には見てくれないので、「ここぞ」と思う地名をローマ字読みしながら、「あっちの方向か?」と指差してみる。 この辺りから宏も、井戸端会議に加えてもらえることになる。
 珍しい日本人。面白い話題の提供は、道を尋ねる者の義務と宏は信じている。 一人は英語が少し、もう一人は現地語とドイツ語が話せた様だった。 30分余り カタコト会話 を楽しんだ後、「このボタンを私のために押してくれませんか?」と、カメラを渡した。
素早く(ちゃっかりと)、もう一方のおばさんの側に立つ。 シャッターは押され、返してもらったカメラをケースに収めようとしたその時、おばさんがすまし顔で「 私ら二人を写してくれ 」と言っている。 『 フィルムがもったいない。』と内心では思ったが顔には出さず、『 国際サービス 』と割り切ってご要望にお応えする。
直後に写してくれと言ったおばさんが「ゴニョゴニョ」と現地語で何かしゃべった。目が少しいたずらっぽく笑っており、その目をそらす様にしてしゃべった。 気になってもう一人に「何てしゃべったのか?」と、聞くが、「教えてあげない」と、二人で笑っている。 そう言われるとますます気になって、執拗に聞き返す。 ついに英語に訳してくれた。
「日本に帰ってから写真の下に、『 親切な二人のおばさんに会った。』と書いておきなさい」と、言ったんだそうだ。
 旅も終り頃 になるといちいち自転車を止めて道を尋ねるのも、面倒になってくる。 老眼の始まっている宏は、自転車のスピードを緩めないまま、片手で近眼用のメガネを外し、移動しながら地図に目を近づけて、地名をチェックする要領を覚えた。
行く先の地名をチェックしておいてから通りがかりの人に、「メッサの町はこのずーっと向こう?」と、指さしながら大声で聞く。 聞かれた方も心得たもので、「スイ、スイ、スイ(そうだ。そうだ)。あと、30キロメートル。」と、答えてくれる。「グラッチェ(ありがとう)」という短い会話が成立する。
 陽気なイタリア人との出会いの一コマである。 東京ではこんな会話は到底無理であろう。
  スイスのある丘の小道、夕暮れのことである。
向こうから中学生らしい娘さん3人が、自転車で近づいて来る。( 宏は夕日を浴びながらペダルを踏んでいる。) 今夜の宿のことが気になって、3人娘が目には入っていても気が付いてはいない。 突然歌うように、「ボンソワール。ボンソワール。ボンソワール。」と、声を掛けられた。 あわてて、「ボンソワール(こんばんわ)」と応え返す。 牧歌調の景色の中で、『 この辺りはフランス語圏なんだな。』と気づく。 娘さん達の姿はもう丘の向こうに消えかかっていた。
 この後宏は、運よく田舎の安ホテルを見つけている。 3人の天使に逢ったような、爽やかなイメージが脳裏に残った。

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2009年4月28日 (火)

14)、アウトバーンと警察官Talk about Autobahn running on a bicycle and was scolded by the policeman.

 バーゼルは、スイス・ドイツ・フランスが国境を接する町で、ライン河畔にモニュメント(ドゥライ・レンデ・レッケ)が立っている。 何の変哲もない低い塔であり、工事中でもあって、がっかり。 それはともかくとして、三か国が近い地点であり、この日一日で、3ヶ国の警察官と出会った。 次の話は、アウトバーンを走っていて ドイツの警察官に職務質問 された話。
 国境に架かる橋を渡って、バーゼルの看板に従いながら勢いよく走り込んだら、"またも"アウトバーンに紛れ込んだ。("またも"、と付けるのは、これで3回目だから)。 『 まあいいや。多分、アスファルトの2車線が高速道路で、端のコンクリート道路が一般道路であろう。』と、勝手な解釈をして走っていると、黄色っぽい(日本で言う道路公団の)車が、追い越した先、百メートル前方でストップした!
『 やられるな 』と思ったら、案の定、「ここはアウトバーンだ。この道とライン川との間に、自転車が走っていい道がある。次の休憩所で出なさい。」と、きついお叱りを受けた。 「危ないので後ろを伴走してあげよう」。 しかたなく宏は前を走る。
黄色い車は後から付いて来る。 休憩所に着き、示された方向に走って行く。事件はこの後である。別れ際に(よせばいいのに)、「そっちの道はデコボコの道じゃないのか?」と、渋ったせいかも知れない。
 ライン河畔に出た。 何人かの人が、のんびりと散歩を楽しんでいる。 宏はそのまま少し進んだ所で自転車を止め、川岸で休息していた。 自転車との距離は50メートルばかり離れていた。 そこに来た来た、パトカーが唐突に現れる。
ゆっくりと宏の自転車に近付いて行き、停まった。 制服警官が二人、ニヤニヤしながら宏の方に近づいて来る。 二人共、ガッシリとした体格で背も高く、迫力がある。
「私か?」 「そうだ。アウトバーンを走っていたのは、おまえだろう」 「そうだ。」と、正直に答える。 「どこから入った?」 「フランス側から橋を渡って来て、紛れ込んでしまった」 「6マイル(約10キロ)走っているぞ」 と、笑いながら言う。
 笑ってはいるが隙がない。 腰にぶら下げているピストルがちょっと気にかかる。 「どこから来たか・・(と続いた後)、パスポートを見せろ」と来た。 「はい。はい。」と言って差し出す。
 一人がパトカーに戻って電話でチェックしている。 待っている間、宏はもう一人の警官と、「ドイツの天候は変わり易い。朝晴れていても、突然大雨だ。・・・」と、世間話をしている(沈黙が何故か怖かった)。
ベルギーでしか入国審査をしていないのに身元確認がもう済んだ様子で、警官が戻ってきた。「OK!」 「ヨーロッパでは国境を越えてもパスポートチェックされたことが1回もなかった。通用するのかどうか不安だった。サンキュー」 と言って、例のセブンスターを一箱差し出した。 《 ちゃっかりと受け取っていく警察官。》
後でたばこの残りが少ないことに気が付き、『 やるんじゃなかった。』と思ったが、後の祭り。 何処かで落としたらしい。 他にも6ヶ国語の会話集もなくしているが、この時には、まだ気が付いていない。
 紛失物と言えば、2,3日前に買ったばかりの財布を落とした。 『 財布を拾った奴は、初め喜んで跳び付き、後でがっかりしただろうな。何にも入っていないのだから。』と、酸っぱいブドウのイソップ狐のごとく、自分に言い聞かせた。
『 ようやく本日の洗濯も終わった。 既に23時30分。 少々(?)お腹は空いているが、今夜の夕食はチョコレートの"かけら"と、昼間会った自転車じいさんがくれた「チョコ付きウエハス」で我慢する。 もう眠くてしょうがない。 明日はスイス入りし、ジュラ山脈を越える。 少々日程が遅れているので、峠越えの近道をしよう。 南に下ったせいか、もう外は真っ暗だ。』

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2009年4月27日 (月)

13)、畑の遥か向こうに、教会の屋根が照り映えている。The roof of the Church are aglow with the far across the field,

 天候の良い昼間は、それなりにドイツの旅も楽しい。 マインツの南、ヴォルムス辺りであった。小高い坂を登り詰めた道路わきで、数人の人がビールを楽しんでいる。 道を尋ねるついでに、宏は「売ってくれないか?」としゃべってみた。
「全部か?」 「1本」 「プレゼントするよ」 栓を抜き、宏はすぐに仲間に加わっていく。 道路わきの駐車場である。『君のような輩(やから)が何人も来てはたまらない』という素振りで、足元にビールを隠す仕草をしてみせる。
 一緒になってワーワー騒ぎつつ喉を潤した。 珍しい遠方日本からの客だ。しかもヨーロッパ縦断中である宏の話題は豊富だ。「アルプスをこの自転車で越える」 「ヘーー」 「ローマまで行く」 「無理。無理!」 と、半信半疑顔。 日欧文化の違い(昼間から路上で酒を飲んでいることなど)を論じ合った。
 何かお礼がしたかった。 ふと思い出してリュックから日本のたばこセブンスターを取り出し一箱プレゼントする。代わりにポーランド製とかのたばこを勧められて吸った。 セブンスターと似た味で、うまい。
これはフィルター付き。前にどこかの街角で、やはりポーランド製の紙巻きたばこをを勧められて吸ったことがあった。あれはフィルターなしだったけど、少し軽かった。 ドイツへの電車の中でジプシー風の女性から手ほどきを受けて、紙巻きたばこを自作して吸ったこともあった。 そんな事を思い出しながら、みんなと一緒になってワーワー騒いだ。
辺り一面には麦畑が広がり、畑のはるか向こうの方に、教会の屋根が明るく照り映えていた。
  動く看板
 
快調に自転車を飛ばしている。辺り一面にいちご畑が広がっていた。 前方に直販売の小屋がある。
「グーテンターク(こんにちわ)」 と、声をかけながら止まる。
「いくら?」 「3.5マルク」 「私には量が多い。半パックだけ売ってくれないか?」 「3マルクにしてやるから、そこで食べてってくれ」 「心得た。OK」 と、みずから動く看板になる。 気持いいほどに次々に車が止まり、イチゴを買っていく。 車からバケツを取り出して来て、いちごを取りに畑に入って行く!
『 もうチョイ、まけさせても良かったかな?』 と、思いつつ、うまそうに宏はイチゴをパクついた。 口の周りがイチゴで真っ赤だ。 真夏の太陽がまぶしく光り、宏の顔や手足を明るく照りつけていた。
  バーゼル近くのホテルにて
 
6月11日 『 21時過ぎ。 洗濯をしている真っ最中。 所はバーゼル(スイス)直前の中国系ホテル。 洗濯はこれで四回目だ。 黄色いウインドブレーカーも洗った。 洗濯液が真っ黒! 気持ちが悪くなるほど汚れている。 特に襟首(えりくび)がひどく汚れている。』
 昔、ながら族 という言葉があった。今宏は洗濯をしながらこの日記を書いている。随分と器用になった。『 家内にみせてやりたい。』と、思った。
  悪路
 
今朝はラストという小さな田舎町を立ち、ブライザッハから再度フランス入りした。そこから宏は大変な悪路に迷い込んでしまった。 いつもの如く、橋のたもとでブラブラしている人を捕まえて、道を尋ねた。 (雨上がりでもあり少し不安を感じて)「悪路じゃないのか?」とは聞いてみたが、そこはフランス人(?)である。 地面を指しながら「ノン。ノン。この位の道が続き、悪くない。」
 その返事を鵜呑みにしたのが最悪だった。 折からの雨で泥道、砂利道の連続である。 『もうちょっと進めば良くなるのだろう。』と進む内に、引き返せなくなった。 というよりも、引き返すのは何か損をしたみたいで、引き返す代わりに強引にでも前進するのが宏は”好き”なのである。
 これが祟って、とうとう15キロ余り、悪戦苦闘する羽目に陥った。 両側から山が迫っているコブレンツ~マインツ間は、川沿いの道をただひたすらに走れば道に迷うことはない。 しかし、中原の平野部は違う。 三日月湖あり、砂州の原あり、水路ありで、川沿いに走るのは容易なことではない。
今、宏は水路とライン川とに挟まれた、細長く延々と続く帯状の砂利道を走っている。 物凄い振動! 段々と雲行きが怪しくなってくるし、宏は気が気ではない。 時折、車の走っている音が右手に延びる水路の向こうの方から聞こえてくる。 意味は分からないが、注意書きらしい看板がたびたび現れる。「行き止まり」である可能性も充分にあった。
 幸い行き止まりではなかった。
やっとの思いで水路引き込み用の建物までたどり着き、その悪路から抜け出せた。 アスファルト道路にホッとする。 束の間、宏は異様な音に気が付いた。自転車を止め、調べてみた。
 荷物台の金具が2本とも折れていた! 改めて振動・衝撃の大きさにびっくらこいた。 ゴムバンドでサドルにくくり付けるという応急処置をする。 心配はしたが、そのまま走り続けることが出来、『 パンクもせず、かわいいやつ。』と思った。
  英語を話すのは英国人だけ。
 
雨も上がり、舗装道路ともなれば、気持はいつもの陽気さに変わる。 菜の花畑が綺麗に広がり、思わず写真に収める。 付近の子供達を相手に「アン、ドゥウ、トゥウ、カトゥル、・・、ボンジュール」と、フランス語のレッスンに余念がない。
ついでに日本語では「いち、にい、さん、しい・・」だと、指折って教えてあげる。 どこの国でも子供は呑み込みが早い。発音も正確に捉えられる。 子供達に飽きられない内に切り上げて「さよなら」を言い、またサイクラーに戻っていく。
 遠くの田舎町がまるで箱庭のように見える。
その向こうの山波はドイツ。 ライン川を挟んだこの地域も、歴史の中でフランスになったり、ドイツになったりと激しく揺れ動いて来たのであろう。素直に乙女チックな感情を味うのであった。
『 数多くの教会や城を見て来た。大聖堂もいいが、片田舎の教会や崩れかけた城も、なかな良い。 ライン川も下流から上流にかけて数百キロ見てきた。 ローレライで有名な[コブレンツ~マインツ]間もいいが、途中途中の変化も仲々良かった。 この1週間、エメリッヒを起点としてドイツ国内をライン川沿いに上って来た。 毎日のように「雷」を伴う大雨が降り、段々と水かさが増したせいもあるのだろうが、なんだか上流に行くほど川幅が増したように思えるのは気のせいであろうか?
『 昨日(6/11)で、ちょうど2週間が過ぎた。 旅半ば。 旅慣れたと言えばその通り。 日本人にはめったに逢わない。 知っているわずかな単語とパントマイムの世界で、ドイツ語の学習が続く。 たまに日本語を耳にするとびっくりしてしまうし、返事を英語やドイツ語で発声しようとしてしまう。』
 コブレンツのユースで日本人の女の子(スペインに3年間、遊学中)に声を掛けられた。 朝食時にたまたま座ったら、日本語で話しかけて来たのだ。 それまでの印象は、スペイン系か南米系というイメージだったのでびっくりした。(以下は久々の日本語)。
「随分と大胆だなあ。親がよく許してくれたね」
「もう慣れているでしょう」
「私の長女も大胆娘で、一年間アメリカに行ってたんだ。親は心配なものだよ」
「アメリカの何処?どの辺り?」
「ユタ州だ。ソルトレークシティー。ロッキー山脈の辺りだ」 「留学ですか?」 「交換留学生として行ったんだ」 「それは良かったですね」 「日本に帰って来て一ヶ月後に、例の服部君射殺事件があってね。知ってるかな?」 「ええ、聞いてる。親が電話で知らせてくれて、うるさかった」 「親ってそんなもんだよ。既に自分の娘は帰って来てはいたんだけど、ぞーっとしたよ」 「私は大丈夫。色もこんなに黒いし、日本人にみられないから、その点安全!」 「気をつけなさいよ」 「ありがとう」
 彼女の食事が進まなくなった。まだ皿の上には大きなサンドイッチが一つ乗っかっている。周囲に気を配っている目つきでチラチラと見廻している。(どうしたのか)と、いぶかしく思って見ていると、足元に置いてあったリュックサックを引き寄せチャックを開けると同時に、皿の上のサンドイッチを静かにさっと仕舞い込んでしまった。 宏はちょっと興醒めした。 「昼御飯にするの」 「あんまり品の良い行為じゃないね」 「へへへ」 少しばつの悪そうな顔が、せめてもの救いであった。
『 そのユースには韓国からの三人娘もいた。その一人は日本語を勉強中とのことで、盛んに日本語で話しかけてくる。返事は他の二人にも分かるように英語が中心になる。自然にそうなるから不思議と言えば、不思議だ。』
 ケールのユースでは香港より三日前に来たという学生と一緒になった。 ここでも英語・ドイツ語のチャンポンである。 面白いことに、Japanese English という言葉があるが、中国人は Chainese English を話すらしい。同様に、これまでに会ったドイツ人・フランス人は、それぞれに母国語の発声法を含んだ発音をしている。
「日本人が Japanese English でも悪くない」と、思った。 要は自信を持って(足らないところを身振り手振りで補いつつ)自分の意思を表す事であろう。 不思議なもので、何をしゃべっているか、特に自分の関係するものならピンと来るようになり、瞬間的にヤー(Yes)とか、ナイン(No)とか応答できるようになってくる。
少し後のイタリアでの話だが、ある数名のグループとケーブルカーに乗り合わせた。その時随分と綺麗な英語で話しかけられたので、瞬間的に、「あなた方は英国人か?」と聞いてみた。 その通りだった。
そんなものだ。English English を話すのは英国人しかいない。 アメリカ人でさえ、アメリカン・イングリッシュである。』 それまで宏は外国人コンプレックスもあって、小さい頃から英語の発音にはひどく神経を使っていた。 宏は急に、悟ったような境地になれた。

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12)、雨とユースホステル(ドイツを走る)Leave the hostel in the rain, running in Germany.

 『 日本のユースホステルは(電話さえ入れておけば)到着が8時でも大丈夫なのだが、ヨーロッパのユースは6時までにチェックインしないと夕食にはありつけない。 夏時間採用でなければ、実際には5時! お天道様はまだ空高くある。 見たり走ったりするにはまだまだおいしい時間帯であり、この8日間、ユースでの食事に一度もありついていない(これは自転車乗りの宿命かもしれない)。おまけにユースは山の上とか町外れなど、不便な所が多く、はなはだ都合が悪い。』とは言うものの、ケチケチ旅行の宏にとってユースの魅力は大きい。飽きもせず似たような失敗を何度も繰り返していくことになる。
 6月 3日
 ヨーロッパには三寒四温は無くて天候は変わり易い。《 特にドイツは急変する。》 とは聞いていた。しかしこうも激しいとは思ってもみなかった。ショックは大きかった。
『 今朝、電車でオランダの北の町リューデスハイムを立ち、昼過ぎにライン下流の街エメリッヒに着いた。 元々風の強い日ではあったが、日差しは暖かだった。広場の人々も歌を歌って楽しくやっていたら、急に雨がパラついてきた。これはすぐに止んで晴れて来た。さあスイスまでライン上り( 川上に向かうのでライン下りではない )の出発! と意気込んだ直後に大雨に打たれた。晴れた後にまたまた大雨に遭う。
 わずか5時間の間に、晴⇒小雨⇒快晴⇒土砂降り⇒晴⇒大雨 と、3回も繰り返された。この年は異常気象であったらしく、この後もたびたび雨に祟られることになる。この日は、ほうほうの体でユースにたどり着いた。 夕食にありつけなくて、山を降り、帰り道にまた大雨にあった。
 6月 4日
『 頭のてっぺんから足の先まで濡れた。とにかく寒い。泣きたい思いだ。』 この反省の下に、雨具を買い込んで万全の体制を取ったつもりだった。『結局雨の中を数時間走ってユースにたどり着いたのは、9時過ぎだった。 びしょぬれで、リュックの中まで水がしみこんでいて、地図や下着など、部屋中に広げて寝た。』(ジュイッスブルグ)
 6月 6日
『 今、バス停で雨宿り中。ひどい雨だ。 今日・明日は天気が悪いそうで、明後日の日曜日は回復するとの事。 スーパーで肉のフライとジュースなど買い込んだが、外で食べるのは無理のようだ。余り遠くまで行けそうにない。 昨夜は道路沿いの小さな居酒屋兼ゲストハウスに泊まった。 ビールを大ジョッキ2杯(2杯目は親父の目を盗んで息子がサービスしてくれた)。 一昨晩の洗濯物を部屋中に干して寝た。』
 6月 X日
『・・、ペダルが重い。向かい風である。おまけに雨。 あそこの感覚が無くなる。 サドルから伝わってくる振動のせいだ。時々手で触って(存在を)確かめる。座る位置をずらしながら、ペダルを踏み続ける。』
 6月10日
『・・、また雨である。ついさっきは晴れ間が見え、日が射していた。ケールの町で昼食をすませ、橋を渡ってフランス入りした途端の雨だ。国境警備詰所の大きな建物で雨を避けながら日記を書いている。フランを持っていない。買物はしないでシュトラスブールの大聖堂だけを見て、ドイツに引き返して来よう。 目の前にラインが流れている。連日の雨で流れはかなり早い。』
 6月11日
『・・、雨をやり過ごすのはかなりうまくなっていたのだが、やられてしまった。雷を伴う横殴りの雨を避ける所もなく、ずぶ濡れ。 荷物にビニールをかける暇さえなかった。 少しでも濡れないようにと、自分のウインドブレーカーで荷物を抱え込むようにして耐えた。』と、まあ、こんな具合でドイツ縦断の間中、宏は雨に祟られた。気まぐれな神と、電車で乗り合わせ「貴方は黒雲を運んでいる」と占ったジプシー女性を、恨めしく思った。
 たまには快晴の日もある。 6月 7日
コブレンツのユース(山頂にある大きなお城を改造し、市内を流れるライン川を一望のもとに見渡せるユース)を出発した。 じきに青空が広がってきて夕方には快晴になり、珍しく暑い一日となった。
 ライン川沿いには多くの城があり、見応え充分! 当然ローレライの人魚も見たが、勢いよく流れる川の流れの方が印象的であった。 『相も変わらず毎夕方、ユースを探しをやっている。 昨夜は雨の中を探しまくった末、山の天辺のユースにたどり着いた。夜10時を過ぎており、流石に辺りは暗い。( 夜景は奇麗!)。ベットは鉄製でギシギシと音がし、No Good。 しかし、お城の中ということもあって旅の雰囲気はまずまず! 明くる朝は素晴らしい景色の中で、ユース仲間同士で写真を撮り合い、ユース城を出発。 一路、マインツを目指す!
 ビンゲンまでは快調であった。そこでアウトバーンに入り込んでしまった。 引き返すことも出来ず、まごついた。 この辺りからマインツまでの道は単純ではなく大変! 親切なサイクラー(おじいさん)がマインツ近くまで案内してくれた。 その後は親切なサイクラー(おばさん)が、マインツ市の中央部まで一緒に走ってくれた。 「2度あることは3度ある」とは良く言ったもので、この日はもう一回親切な御夫婦に出会う。
 マインツ市の南方にあるユースでは宿泊を断られてしまった。「この市の北12、3キロ先のビースバーデンのユースに行ってくれ。」との事。 後戻りであり気は進まないが、地図を見ながら訪ねて行くことにした。途中で、日産の四輪駆動車に乗り込もうとしている御夫婦に遭遇。
「その自転車を後ろに積みなさい。送ってあげましょう」 「その親切は有難いが受けられない。場所と方角を教えて下さい」 「まだ10キロ以上あります。道は複雑で説明するのも非常に難しい。私達はその町に帰るところです。送ってあげましょう」 「申し訳ない」 「いいんですよ。以前私達がパリを旅行していた時、道に迷って途方に暮れていました。雨も降っていました。その時地元の人に大変お世話になりました。いつかお返しがしたいと今までズーッと思っていたのです」
 確かに道は複雑怪奇で、自転車では到底たどり着けるしろものではなかった。「この親切は一生忘れません。日本に帰って困っている方に逢った時、この恩返しをさせて頂きます」 「そうして下さい。アオフヴィーダーゼーン(さようなら)」 「ヴィーダーゼーン」
 6月 8日
翌朝は一路カールスルーエを目指して行った。とにかく距離を稼ぎたかった。『・・、20時30分 シュパイアーが限界であった。 食べているか道を聞いているか以外は走り続けたように思うが、これが限界であった。自転車の走れる道があまりに複雑で、外から来た者には非常に困難を伴う地域だ。 12時間、130キロ以上を走っているであろう。 今、シュパイアーのユース玄関先でペアレント(事務員)を待っている。チェックインタイムが5時~7時までの2時間と、9時30分~10時までのわずか30分と限定されていて、まことに厳しい。ガイドブックではベット数も少なく、泊めてもらえるかどうか不安。 もう一人自転車で来たという女性が待っている。 お互いに雨に濡れ、彼女も寒そう。』

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2009年4月24日 (金)

9)、老化現象を如何に直すか?

病は気から

『 いい歳をして・・、と自分をいじめるのは止めにしよう。自分の病気は自分で治すんだ。ヨーロッパに行くんだ。自転車縦断にトライしつつ考えよう。』と、宏は決意した。 某電機会社の課長さんで45歳の宏は、この2~3年、視力の衰えが激しくて、いささか落ち込んでいた。おまけに最近、胃のあたりに痛みを感じて、気になっている。 これまで医者嫌いで通してきたが、友人にそそのかされるようにして近くの総合病院に出かけた。

視力の衰えは老化現象であった。「ビタミンEが良いそうですが・・」 「そういう見解もあります。しかし、歳をとると皆こうなるのです。点眼薬と総合ビタミン剤を出しておきましょう。薬が無くなった頃に、また来てください。」

覚悟はしていても、そうはっきり老化と宣告され「 治る見込み無し 」と言われたショックには、隠しきれないものがある。 『 検査ばかりして結局何んにも出来ず、挙句の果てには副作用で病人を苦しめる。現代の悪魔か吸血鬼か、医者という者は!』と、腹立ちまぎれに思った。

胃の痛みは内診でははっきりしない。「胃カメラで視てみましょう。その方がスッキリしますよ」 「小さい頃にゴム管を飲まされて、今でも忘れられないくらいに苦しかったのですが・・・」 「昔と違って管が細くなり、飲みやすくなっていますし、麻酔も使います。立体カラー映像で貴方も自分の胃の中を見ることが出来るのですよ。面白いですよ」。 「 ・・・ 」 「一週間後にもう一度来て下さい。前の日からの24時間は何も食べないで下さい」。

胃カメラ

次の週、あぶら汗と涙を流しながら、宏は胃カメラを飲んだ。 カメラ技師がグリグリとしきりに機械を操作している。 「ちょっとこちらを見て下さい」。 と言われても喉に管が差し込んであって身動きが出来ない。 目には涙があふれ、メガネも外されているので、見れたものではない。 それでも赤い粘膜の穴が、恐竜の食道の如くに見えた。 「ここを見て下さい。白く腫れ上がっているでしょう。これですよ」。 なるほど少し白くなって、穴が小さくなっている。十二指腸潰瘍の入り口だそうだ。 証拠写真を数枚撮られた。

「どうでした?面白かったでしょう」 「(なにが面白いものか)痛かった」。 「十二指腸潰瘍ですよ。ほら、ここにこんなに大きな潰瘍があります。進行は今のところ止まっていますが、これが進むと手術しなければなりません。しばらく様子を見てみましょう。」 「もうコリゴリですよ」。 「ハハハ、薬を出しておきます。必ず飲んで下さいよ」。

宏は内心、『 癌ではなかった。原因は分かっている。注射や薬では治療にはならない。』と思っており、それが顔の表情に現れているらしい。 「怪しいな。本当に飲んで下さいよ。飲まないと治りませんよ」。 担当の若い医者は笑いながらも、しつこく宏をさとしている。

朝昼晩と毎度の食後、山のような薬の束を手にする度に、宏は閉口する。 随分としつこく説教されて、しかたなく指定された量の半分を申し訳程度に飲んでいる。それでもおしっこは真っ黄色だ。 結局薬は3分の1も飲まない内に止めてしまった。

決意

混んだ通勤電車の中、思いついたように宏は手帳に書き始めた。

3月16日  『 僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る ああ、自然よ 父よ 僕を一人立ちにさせた広大な父よ 僕から目を離さないで守ることをせよ 常に父の気魄を僕に満たせよ この遠い道程のため この遠い道程のため 』 

中学一年生の時に衝撃を持って接し、覚えこんでしまったこの高村光太郎の詩のそばに、宏はそっと書き添えた。 『 自分自身の道を歩む、命続く限り。 命ある限り挑戦し続ける 』

『 学生の時は現地(北海道)で手に入れた。 今回は色々と悩んだ末に、飛行機で運んで行くことにした。これが果たして良かったかどうかは結果次第だ。 安い航空券を探している。 出発地点をローマとすべきかアムステルダムとするか? コペンハーゲンはちょっと遠すぎてこの歳では無理だろう。 ピサには行きたいな。 アルプスの山は是非、自分の足で越えたいものだ。・・ 』

学生時代、宏は自転車一人旅の趣味を持っていた。九州や北海道を隅から隅まで一筆書きで回った。 大阪万博のあったころで、北海道からの帰りに申し訳程度に立ち寄った写真もある。 当時はカラー写真はポピュラーではなくて、全て白黒。

田舎に帰省した時に、こっそりと倉の二階に上がり込み、その頃の写真集を取り出しては青春時代を思い出していた。 そんなに好きだった自転車旅行もサラリーマンになってからというもの、その機会は完全に封じられていた。 何度かユーロッパ縦断の夢を実現しようと試みたことはあったが、駄目であった。 24才という若さで結婚し、娘二人はすでに高校生と大学生だ。 このヨーロッパ自転車縦断の夢は、かなえられない夢のまま終わろうとしていた。

そんな普通のサラリーマン生活が20年以上続いたある日、彼の会社では新たに”チャージ(リフレッシュ)休暇制度”が導入され、今年宏は丸々1か月の休みが貰えることになった。 会社にこの制度が導入された以降の3年間、夢をふくらませる一方で、宏は悩み続けて来た。

『この歳で果たして自転車旅行が可能であろうか・・?』 途中で挫折して帰ってくるみじめな自分の姿が頭から離れない。 足を滑らせて崖から転落するシーンが脳裏をよぎる。 交通事故の心配。言葉の問題、・・  十二指腸潰瘍になったのは厳しい仕事のせいばかりではないと、宏には分かっていた。

悩み続けてはいたが、ついに5月のゴールデンウィーク前にある日の夕方、彼は折り畳み式の自転車を買い込んだ。 そして、ちょっと恥ずかしそうに 近所を乗って回ってみた。 

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2009年4月23日 (木)

8)、野宿( 砲台の跡?)

右手向こうの方にコンクリートの崩れかけた小さな建物がチラッと見えた。『まさかそんな好都合なことが、』と思いつつ通り過ぎようとしていた。そのまま100mも進んだであろうか、宏は急にブレーキをかけた。 『泊まるところが必要なのだ。可能性は全てチェックすべし!』 引き返して草むらの中を自転車を押しながら、建物の方向に進む。

ちょっと泊まれそうにないほど中はゴミ箱状態であった。『無理だな。』 そう思いつつ建物を出る。 周りには小さな低い丘がいくつかあった。何の気なしに近くの丘に登ってみた。  くぼみに隠れるように別の建物がある。 がっしりとした”かまぼこ状の”かなり大きな建物で、外壁には錆びた鉄製のはしごが残っている。

どうやら第二次大戦時の建物のようだ。ドイツ軍が残したものだろう。更に近づいて見た。  縦横1メートル位の四角い穴が横っ腹に開いており、出入り可能である。 穴を覗いてみる。 入ってみる。

2つ、3つ空き缶が転がっており、焚き火の跡があるくらいで、中は比較的きれいだ。外壁の厚さは1メートル位はあろうか。 出入り出来るところは1箇所だけ。多分他は封鎖されているのであろう。 床は土、・・・

『先ほどのゴミ箱建物の中に長い板が2枚あった。あれを運んで来よう。』  既に宏は8割方”野宿”に腹を固めている。 一旦穴から這い出した宏は、自分と同種の珍入者発生確立を計算しつつ、雨に濡れた草原を歩き回った。 既に9時近い。 どんよりとした雲は辺り一面を覆い、先ほどからの小雨は依然として降り続いている。

『人影はゼロ』  宏はおもむろに長くて重い木の板を運び込んだ。 雨よけに使っていたビニールを板の上に広げ、その上に寝袋を広げる。 自転車も建物内に入れ、外からは見えない位置に立て掛けた。  板を運び込もうとした時、重い板が太股の上に落ち、今も痛みがある。 『骨にひびが入っていなければいいが、』と、その箇所をマッサージした。

建物内は既に足元が見えないほど暗くなっていた。懐中電灯を取り出し、天井や周囲を照らしてみる。 さそり・戦死者の亡霊・、と妄想が起きる。 宏は『 やばい!』と想い、直ぐその想念を打ち消した。  『 内部探検は明日だ!』 頭の切り替えは早い。 チョコレートを3かけら食べて、あっという間に寝入ってしまった。

次の日は5時前に目が覚めた。 幸い雨音はせず、昨夜の寝る前よりは明るい。 宏は寝袋を抜け出し海岸線を歩いた。 何千羽という海鳥が防波堤で羽を休めている。 宏が近付くにつれ、ざわざわと海面に滑り降りていく。

沢山の石で造られた防波堤は黄緑色の海草の衣をまとい、禅寺の"古石"のように見えた。 石の隙間の貝殻のかけらや透明感のある丸い小さな石をいくつか拾い、それを彼は旅の記念とした。 さわやかな風の朝であった。 妙に暖かいコーヒーを飲みたくなった。

昨夜の打撲箇所にはまだ痛みが残っていた。が、出発前に一応建物内部の探検はやっておくことにした。 天井が低いのは、どうやら土で床を埋めたためのようである。 土の下に何があるのか想像もつかない。 左手奥に四部屋あって、感じではベッドルームというところか。

右手奥には少し大きな部屋が3部屋あり、鉄はしごと何やら重い物を上下移動する装置の残骸がある。 『 大砲の弾でも上げ下ろししたのであろう。』 錆びた鉄の色が時の経過を感じさせる。

どの部屋にも光の漏れ入ってくる所はなく、懐中電灯の光の当たった処だけが、ぼんやりと浮かび上がってくる。  少し息苦しさを感じて、あわてて昨夜眠った部屋まで駆け戻り、数回大きく深呼吸した。

『 密閉に近い建物だ。何かの関係で酸素が薄いのかもしれない。長居は無用。』 宏はそう思い、出発することにした。 外はまだ雨がパラついていた。 自転車を押し、20,30歩進んだ所で振り返って見た。

『 ここで一夜を過ごしたんだ。』という証拠写真を撮るべきか、少し迷った。 「 止めた!」  何故とははっきりしないが、なんとなく写真を取るべきでははいように思えた。 堤防上の道路に戻り、北端の水門を渡り切って、北海を見る。

左手後方には緑の丘が見えるだけで、そこに凹みがあって宏が野宿した建物があるとは、とても想像出来ない。 海岸近くに昨夜草原から見えたような建物があった。何故か安心したような気持ちになってシャッターを押した。

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2009年4月22日 (水)

7)、アイセル湖大堤防(ダイク)、元気の良いお姉さん

インド人の館を出た後、まっすぐアイセル湖に向かった。少しずつ、少しずつではあるが、辺りの風景は荒涼さを増してくる。それでも人情は変わらない。ただ、いよいよ出会う人が少なくなってくる。

アイセル湖の大堤防南端に着いたのは夕方5時ごろであった。そこに小さな売店があった。「こんにちは」 「いらっしゃい!何にいたしましょう。」 高いカウンターの向こう側から元気の良いお姉さんがにっこりと笑っている。義理の姉妹が日本に遊学しているとのことで、このお姉さんは英語が堪能だ。

「なにがおいしい?」 「なんでもよ。こっちのソーセージのフライもいいし、あっちのフライドポテトも最高よ。すぐに揚げてあげるわ」 「それじゃあ、これとあれと。それからポテトサラダなんかある?」 「あるわよ。こっちにあるけど、どれにする?」 「そのハムのはいったやつ!」 「どのくらいほしい?」 「小さいパック分入れてくれる?」 「わかったわ。ちょっと待っててね。」 他には誰もいない。「ここで弁当の残りを食べてもいいかな?」 「ええ、いいわよ」

コロッケやソーセージを食べながら、その気の良いお姉さんのいる売店で小一時間ほど雨宿りした。その間にも高齢の御夫婦が雨宿りに入って来てフライを食べ、また出て行った。 「そろそろ出かけないと日が暮れてしまう。じゃあまたね。」 「ありがとう。」 「そうそう、堤防に向うにはどっちにすすめばいいの?」  姉さんが外に出てきて手を高く挙げ、正面の道の方向に向かって振り下ろしながら、「ゴー、ストレイト(真っ直ぐ進め)」と、号令をかけてくれた。

まだ雨は降ったり止んだりしていた。今日中に30キロを渡り切る必要に迫られていた。 幸いにも強い追い風だ。このオランダの海岸は偏西風の関係であろう、多くの場合「西風」が吹いている。その日は特に風が強かった。自転車のスピードと風の速度が同じくらいであり、辺りを飛んでいる鳥がまるで空中に止まっているように見える。

鶴の一種であろう、太い首筋がU字型に曲がった、ぼってりした格好の鳥も3,4羽見かけた。その特徴ある格好から童話の世界で赤ちゃんを運んでくるという例の”コウノトリ”であろうと宏は思った。日本では見かけない。その写真を撮ろうとしたが、割合に臆病で、数十メートル手前で飛び立ってしまい近づくことが出来ない。

宏は左手にカメラを持ち右手でハンドルを握って、走りながら撮ろうと考えた。数枚のシャッターチャンスはおとずれた。うまく撮れたようであり、うまくいかなかったようにも思える。日本に帰ってからのお楽しみだ。

堤防の中間地点は少し広くなっており、自動車道路の向こう側に休憩所がある。そのあたりで急に雨足がひどくなってきた。前方にバス停が見え、急いで避難する。 厳しい横殴りの雨だ。10m先も見えない程で、少し心細い。

20分も雨宿りしたであろうか、少し小降りになったところでまた走り始めた。 南端を出発してから1時間半後、堤防の北の端が薄靄の中ぼんやりと見えて来た。時計は8時を指している。

さあ、どうしようか?』と、宏はペダルを踏みつつ思案を始める。『この雨の中で濡れながらの野宿は無理。・・、泊めてくれそうな町までは10キロ、いや、20キロ・・、何処かにバス停でもあればいいのだが・・、いやいや、いい歳をして日本人の恥さらし。』と、学生時代の野宿の事を懐かしく思い出しつつも、自転車を進めていく。

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2009年4月21日 (火)

6)、インド人の館で、「明かりを消せ」?

『都会は嫌いだ!』 アムステルダムの市内観光の真似事をしている内に、そう思った。

人人人、車車車の洪水である。 名所旧跡を訪ね歩くのは、宏には向かないようだ。 汗を流し、そこにたどり着いても、『 なあんだ。こんなものか 』と、がっかりすることが多い。アムステルダム駅前は非常に広々としているが、放置自転車の山! それだけが妙に印象に残った。『 旅の発見は田舎にこそある。』 改めて宏はそう思った。

その日はもっと北の方まで走るつもりであったが、6時半頃、「あんたは部屋を探しているのじゃないか?」と、インド人風の客引きに捕まってしまった。「一泊いくら?」 インド人の客引きは、手の平に数字を書いて見せる。「40ギルダー」 「ちょっと私には高い」 少し考えている風で、「 これではどうだ。」と、手の平の数字を書き直す。「 35ギルダー」 「 ウーン、部屋を見てから決めよう 」と、やり取りしている内に、泊まる羽目になっていく。

駅前からかなり離れた住宅街の中に、そのペンションはあった。 真面目そうで清楚なドイツ人夫妻が宿泊しており、宏は少し安心する。 部屋も”御殿”のごとくに綺麗であり、『割安』と判断した宏は泊まることにした。 交渉がまとまると直ぐ、そのインド人の客引きはバイクに乗って出て行った。

宏は玄関口にいたドイツ人夫妻と、話をした。「一週間の連泊。」とのことであった。 「貴女達は一泊一人いくらで泊っているいるのですか?」 「一日当たり、27ギルダー」  自転車乗りは毎日前進しなければならず(連泊は無理であり)相当に高くつく。

インド人が帰って来た。後ろから乗用車が付いて来ている。 『 またお客を捕まえて来たな 』と思ったのもつかの間、突然、「 駅から随分と遠いじゃないの。約束が違う 」と、運転していた女性が大声で叫び、Uターンして去って行った。

懲りずにまたインド人は、バイクで駅の方角に引き返していく。 まことに仕事熱心である。 『 まあいいや。洗濯もサービスと言ってくれたし、私は少しゆっくりすることにしよう。』  この数日間余りに色んなことがあり忙しく動き過ぎて、宏は日記を書くゆとりさえなかったのだ。

夜中の11時であった。 どこからか、鐘の音が聞こえて来た。 白夜とはいかないが、空にはまだ薄明りが残っている。 その空を見上げながら、宏はオランダに入国してからの出来事を日記に書き綴っていた。

初めてのペンションと宿のおばさんとの思い出などにひたっていたその時、突然に窓の外から声がして、現実に引きもどされた。 真夜中の1時である。 窓辺にかけ寄ると、下から多分近所の方であろう、何かこちらに向かって叫んでいる。 黙っているのも変なので、勝手に宏も「 何が起こったのか?」とか、「 どうしたの?」とか質問を発する。

どうも怒鳴られているらしい。「明るくて眠れない」という意味の事をしゃべっている。 「明かりを消せ」と命令されて戸惑っていると、一階に灯がともった。 宿の値段交渉をしたインド人と、その近所の人とが現地語で何やらしゃべっていて、その後、近所の人は帰って行った。

インド人曰く、「 何時まで起きているんだ。早く寝てくれ。」 「(郷に入っては郷に従えだ)。分かった。そうする。」  宏も悪かった。 ここに着いてシャワーを浴びた後、疲れて2~3時間眠っていたので、ついつい遅くなってしまった。 おまけに暑いので、分厚いカーテンは開け放ったままだった。

それにしても「 所変われば人変わる 」である。 日本では真夜中のドンチャン騒ぎは苦情の対象だが、ホテルや宿屋で「 ライトを消せ。早く寝ろ 」とは怒鳴られない。 『 はるかに怒鳴り声や、そのインド人が買っている数十羽の小鳥のさえずりの方が近所迷惑ではないか 』と 理屈っぽいことを思いつつも、宏はじきに深い眠りに落ちていった。

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5)、地図とオランダのサイクリングロード

『 6月1日。 今日はとても暑い日であった。今朝のスタートはオランダの西、ノルトバイカーハウトのユースホステル。自転車仲間が数人、しかもご年配の方ばかり。最高齢は60才の一人旅の方であった。私の子供達より年上のお子さんを持つご夫婦も仲良くサイクリング。私(45才)の自転車旅行は、この国ではちっとも不自然ではない。まさに老いも若きも皆サイクリングを楽しんでいる。真っ平らな地形は自転車に適しているし、本当に道路が良く整備されている。但し、「サイクリングロードはここ!』と、決めてかかられているのがちょっと面倒である。詳しい自転車用の地図が必要で、よそ者にはまことに走りにくい。』

ベルギーからオランダに入国するとき、日本で言う県単位の自転車用地図を薦められた。しかしそれでは、以降の行く先々で詳細な地図を買い続けて行くことになり(高くつくので)宏は断った。当然の結果として、道の聞き方には早く慣れた。

とにかく自転車道はあちこちで曲折しており、標識をたった一つ見落としただけで、とんでもない方向に進んでしまう。 一昨日だったか、民家の前で道をたずねた時、「ちょっと付いて来なさい」と、その旦那は宏を家の中に連れて入り、棚の奥の方から何か引っ張り出して来られた。

これは俺が若い頃、妻と二人で走った時に使った自転車用の地図だ。君にプレゼントしよう」 「えッ、いいんですか?思い出の品でしょう?」 「いいんだ。この地図のグリーンのラインに従って走りなさい」 「有難うございます」 「私達はこれからスイス旅行に出かけるんだ」 なるほど、旅仕度の最中らしく、荷物が散乱している。

その旦那はさらに宏を奥の納屋に連れていく。 「これが今私が愛用している自転車だ。あっちが家内のやつだ。その向こうにあるのは息子の自転車だ。 この二人乗りの自転車を見てくれ。これで家内と一緒にオランダの海岸線を走ったんだ」 「これだと奥さんが楽されましたね」 「そうだ。私も若かった。ハハハ」

再び表に出て、道の説明を受ける。「ここをこう走って、ここでこう曲り、そしたらこの橋が渡れる」と詳しい説明を受け、その地図を見ながら走り始めた訳だが、それでもなお且つ、自転車の走るべき道を見失ってしまう。

地図をプレゼントしてくれた地元の人は、彼が去った後も(自分が教えた通りに宏が走って行くかを)ずーっと見ていたらしく、宏がまごついていると自転車に乗って追いかけて来た。恐縮する宏! 『なんと親切な人達であろうか』と、感心した。

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4)、地球の大きさを”目と足で”確かめる。

女の子が好みそうな 綺麗な二階の小部屋が今夜の宿であった。窓の外には田園風景が”切り絵”の如くに広がり、一番星が西の空に輝いている。地平線近くの空にはまだ赤みが残っていた。あまりに素晴らしい出来事に感動して、最初で最後となる絵葉書を宏の家族に出した。風車のイラストが描かれた、いかにもオランダらしい風景の絵葉書であった。

翌朝、どういう訳か宏は早く目が覚めた。 ベッドから見える朝霧を浴びた畑の景色が、えも言えず素晴らしかった。 もう一つの窓から朝日が差し込んで来た。5時頃である。飛び起きて身を乗り出しつつ写真に収める。 日が沈んだ辺りとあまり変わらない方角から朝日が昇ってくる。 辺りの色合いが刻々と変わっていく様子を飽かず眺めていた。

この20年間、とにかくヨーロッパ縦断の旅にこだわっていた。『同じ夏至の日でも、場所によって井戸に差し込む日差しの角度が異なる ことに気が付いて、地球の大きさを測った人がいる。』という話を若い頃に読んで、感動したことがあった。 日時計製作に熱中した時期もあった。 今回の旅でイタリアのピサに進路をとるか、あるいはベニスを目指すべきか宏はまだ迷っていたが、この朝日を見ている内に”ピサ”と進路が決まった。

『とにかく南に下りたい』。 ガリレオが大小二つの鉄球を落として見せた”ピサの斜塔”へのこだわりは、旅の目的と無関係ではなかった。『僕は地球の大きさを自分自身の目と足で確かめるために、この旅をやってみたかったのだ』。 朝日の昇るのを窓越しに眺めながら、そう思った。 彼だけのために整えられたボリュームたっぷりの朝食をとり終えたあと、おばさんと別れを惜しみながらそのペンションを去って行った。

かなり昔に作られたと思われる小さな堤防の上を走り、人気(ひとけ)のない海岸線を走る。たびたび鳥が飛び立ち、リスが道を横切っていく。木々の緑は何とも言えぬ落ち着いた”光”を照り返している。日本では見かけない色合い! 『レンブラントだったかな』(と宏は思うのだが定かではない)こんな風景画があり、そのときは造られた絵の世界ではないかと思っていた。『現実にこんな世界があるなんて』と、走りながら感動する。

夕日はなかなか沈まない。花の季節は5月中旬までだそうで少し遅いが、それでも田舎道沿いには赤いけしの花畑、黄色い菜の花畑、チュウリップの花畑が帯状に広がっている。 通りがかりのスーパーマーケットや小さな店で食料を仕入れて、そんな風景に見とれながら休んだり、走ったり・・。

ピサは南だ。が、宏はまずはアイセル湖の北の端を目指して北へ北へと進んで行く。

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2009年4月20日 (月)

3)、ダム堤防(ダイク)上を走る。 シマノ製変速機?

ドイツ語のレッスン。

フェリーを降りた後、少し都会らしい風景と、風車のある田舎の風景とを交互に楽しみながら、北上して行った。この辺りの田舎では英語が通じない。ドイツ語の実地レッスンが始まった。 会う人々はみんな親切で、宏の勉強に付き合ってくれる。忙しくもしていない。天気も良いので皆、のんびりしている。見かけない日本人が珍しい自転車に乗って来たという訳で、有難いことに、止まって休んでいると相手の方から話しかけて来てくれる。

「ちょっと聞いてもいいですか?(これは偶々の英語)」 「いいですよ。こんにちは!」 「この自転車は珍しい形をしていますが、、」 「こうなるんですよ」と、宏は自転車を2つに折りたたんで見せる。「こう折りたたんだ後、バックに納めれば持ち運べるんだ。」 「フーン。でもあまり頑丈そうではないですね。」 「私の旅にはこの程度で充分なんだ。荷物も多くないし、そんなにスピード出す訳じゃない。」

突然「この変速機はシマノではないのか」 恐れ入った。シマノはこんなオランダの田舎町にまでも知れ渡っていた。「これはシマノ製ではない。日本の製品品質は皆良くて、どこの製品でもいいんだ。テレビでもビデオでも皆そうだ」と、負け惜しみ気味の答弁をする。

「フ~ン。ところでこれから何処まで行くの?」 「アイセル湖の北の端まで」 「200Km以上あるよ。無理だよ」 「勿論、明日か明後日だよ、着くのは。」 「ひとりで寂しくない?」 「ああ、でも結構楽しいよ。君みたいな人に会えるから」 「頑張ってね」 「ありがとう」

たびたび道を尋ねているのを見かけられたのであろう、わざわざ通り道で待っててくれて道案内をしてくれるオジサンもいる。車はほとんど走っていない。危険は皆無なので並んで進みながら、結局2時間位そのオジサンから”ドイツ語”のレッスンを宏は受けた。

元ドイツに住んでいたというそのオジサンと別れてから大きなダム(堤防)上を走った。 オランダの西側には幾つかの大きなダムがあり、海からオランダ国土を守っている。中学生の頃、国土の4分の1は海面以下と聞いていた。一番大きなのはアイセル湖を形成するダイク(オランダの人々はこのダムを特別に”ダイク”と呼ぶらしい)。そのダイクは、全長が30Kmとのこと。今宏が走っているのは最近完成した2番目に大きなものであるらしく、宏の持っている古い地図には載ってなかった。

近代的なスマートな風車(日本でも最近はおなじみになった型)が河口近くに幾つも立ち並び、勢いよく回っている。堤防の両端には沢山の水門が並んでいて壮観の一語に尽きる。たまたま海水を引き込んでいる時間帯らしく、勢いよく渦を巻きながら流れ込んでいた。その上を宏は走った。太陽は左手北の海上にあるが、なかなか沈まない。海の照り返しが強い。

初めの水門の並びを通り過ぎたあと、北海側に少し広くなったコンクリーの上を走った。誰もいない海岸。勿論堤防の一部だ。  何千羽、何万羽の海鳥が羽を休めている。自転車の進む数十メートル前方で、次から次へと波打つように飛び立っていく。 「邪魔してゴメンね」と、話しかけつつ宏は進む。時々、自転車の直前をうさぎやリスが驚いたように数匹ずつ横断していく。こんな光景の中を数キロ走った。

田舎道でペンション発見!

既に9時を回っている。そろそろ今夜の宿の心配を始めなければならなかった。 『初めての野宿になるかも知れない』。 そう思いつつ、段々と夕焼けの増す田舎道を走り続けた。 その時であった。ペンションの横文字看板が突然目に飛び込んできた。まさかと思って見直したが、確かに”ペンション”と書いてある。そばには1軒の小ざっぱりした農家があった。全くラッキーであった。

呼び鈴を鳴らすと奥から人の良さそうなおばさんが、不安そうに出て来られた。それはそうであろう。宏の身なりは黄色のウインドブレーカーと短パン姿、頭はクシャクシャで全身ほこりまみれときている。しかも太陽こそ照り輝いているが夜中の9時半だ。

英語は全く理解できないようなので、ドイツ語で日本人であること、ベルギーを朝発ち、自転車でここまで来たこと、廊下でも納屋でも何処でもいいから泊めてほしいと、一生懸命手真似を添えて話した。

いくらか安心できたのか、おばさんは宏を中に入れてくれた。胸元からパスポートを取り出し手渡すと、「30ギルダー」と、紙に書いてくれた。即払う。おばさんは嬉しそうにペンションの住所が書いてある”しおり”をくれた。

奥から旦那さんらしい人が出て来られた。この人は多少英語が通じるようだった。「シャワーを使いなさい。」 「おなかがすいている。先に腹ごしらえしたい。よかったらここで食べさせてはくれないか?」 「材料がない。2.5Km先にレストランがある。そこで何でも食べられる。」 「わかった。」

荷物を部屋に置き、直ぐに出かけて行った。小さな田舎町の広場に気のいいマスターが経営するセルフサービスのレストランがあった。なんとか満足な食事にありつけた宏は、暗くなりかけた夜道を引き返していった。 

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2)、ゲントのお城、ブリュージュの美。オランダ国境付近

次の日(第2日目)、ブリュージュまで移動。

ブリュッセルのユースの朝食は7時であったが、意外に出発に手間取った。 昨夜うろついた市内を一周したあと、『ヨーロッパ駐在の友達に電話しておこう』として電話ボックスを探したが見つからない。手当たり次第に訪ね歩いた(携帯電話が発達した現代では想像もできない世界だ)。実際にブリュッセル市内を離れたのは11時近くである。

ゲント市までの平坦な道50Kmを走った。自転車での第1日目だ。無理はしない。それでも見る物・聞くものすべてが珍しく、ついつい時間を忘れてしまう。

ゲント市には有名なお城があり、日本人の観光コースにもなっているらしい。宏も一人前に市内見学を試みた。  隅から隅まで”お城”を見て回っている内に、5時近くになってしまった。もう走るのはあきらめて、鉄道駅を探した。すぐ見つかった。駅で自転車を折りたたもうとした時、駅の中を移動する2人の女性サイクラーが宏の目に留まった。英語で若い女性達に話しかける。

「こんにちは。ちょっと聞いてもいいかな?」 「はい。なあに?」 「貴女達は電車に乗ろうとしているのですか?」 「ええ、そうよ」 「自転車をバッグに納めないままで、電車に乗せてもいいの?」 話し方がぎこちないせいもあったであろう、彼女達は笑いながら、「必要ないわ。この切符を買ってくればOKよ」。と、手荷物切符売り場を教えてくれた。

聞いてみるものである。電車の構造自体が自転車をそのまま持ち込めるように出来ていた。日本で得た観光知識とは大きな違い!ヨーロッパの電車は特急列車を除いて自転車を乗せる特別なスペースが設けてあるのだった。

あっという間に電車はブリュージュ駅に到着した。余りに早くすっ飛んで行く景色を眺めながら、宏は「もっとゆっくりと景色を楽しみたい。やはり、自転車のスピードが自分には合っている」と、思うのであった。

ブリュージュのユースはすぐに見つかった。 人なつっこいドイツ人とフランス人の若者が同室で、夕食を共にした。  夜のブリュージュはとりわけ美しかった。 彼らから聞いた話では、ヨーロッパ第一の”美しい街”なのだそうだ。

ベルギーオランダ国境付近にて(第2日目、5/31)

8時前にブリュージュのユースを出発し、オランダ国境に向かった。少し小雨のパラつく寒い朝だったが、まずは快調に走り出した。 国境目前でたまたま見つけた肉屋さんでソーセージ・アバラ肉・サラダ2種類を運よく仕入れることが出来た。

国境はいつの間にか通過していた。付近で日本円のトラベラーズチェックを使って2万円分のギルダーを購入。 オランダの田舎町であり、日本人がめったに来ないらしい。交換には相当時間がかかった。以降どこでもそうであったが、日本と較べ銀行の警備体制は厳重である。

小さな公園のそばで、さっき仕入れた食糧で早々と昼食を済ませた宏は、北に向かった。

向かい風であった。しかも寒かった。  『もっとも、暑くて向かい風では堪らない』と思う。時々太陽が顔を覗かせてはいた。何人かの人と挨拶は交わしたが、なにせ田舎道。ほとんど人家もない。牧場のほとりで用足しを済ませ振り向くと牛が数頭物珍しそうに近付いて来て、宏を観察する始末である。

また走り出す。 広い平野に道がどこまでも真っ直ぐ付いている。左手向こうの方に土手が見える。さっき会った人は、その向こうが海(北海)だと言っていた。とにかく広い。山らしきものはいっさい見当たらない。

地元の高校生と方角が一緒になり、道路をはさんで大声でやり取りしながら走る。船着場で一緒になり、前後してフェリーに乗り込む。地図を広げて2人は話していたが、アッと言う間にフェリーは向こう岸に着いた。

日本に比べ、オランダはフェリーが安いのにはびっくりする(67円)。ちなみにアムステルダムで対岸に渡るフェリーは無料。 マースルイス近くで 20分間隔で行き来しているフェリーは64円。 流石(さすが)は運河の発達したオランダ事情である。

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2009年4月19日 (日)

1)、真夜中のブリュッセル。街中散歩

『 前略、 昨日(5/30)ベルギーのブリュージュを立ち、国境を越えてオランダの西の端に入りました。日本人は珍しいらしくて、円のトラベラーズチェック交換にかなり手間取りましたが、無事オランダ通貨を入手。 北海に沿って走り続けています。昨夜は偶然にきれいなペンションに泊まることが出来、夕日も朝日も素晴らしいの一言です。朝食もボリュームたっぷりで満足。今日はこれからアムステルダムの近くまで走る予定。元気でやってます。 宏より 』
 成田出発がエンジントラブルで4時間近く遅れた。 ブリュッセル空港に着いたのが、夜の8時半。なんやかんやで市の中央駅の到着したのは9時を回っていた。 周囲の一目を気にしながら日本から持ち込んだ折りたたみ式自転車を組み立て荷物をまとめるのに、30分以上かかってしまった。
 宏は内心ヒヤヒヤだった。 暗くなりかけた市内をユースホステルを探してゆっくりと走り始める。 コンパスを持ち、地図も持ってはいたが、もうひとつ方向感覚がつかめない。 中央駅付近をしばらくグルグル回っていた。 探していた南駅近くのユースは、分かってみれば極近くにあった。夜遅かったが泊めてもらえることになった。
「二人部屋、四人部屋、八人部屋、大部屋とあるけど、どれにする?(勿論、英語です)」 「一番安い部屋」 「大部屋ね。3階のこの辺りにあるわ。ベッドNoはこれ。シーツ持ってる?」 「寝袋をもってるんだけど、」 「それでいいわ」  美人の気さくなお姉さんである。
「自転車を持っているんだけど、あそこに置いてていいかな?」 「エッ、自転車に乗って来たの?どこに置いてるの?」 「あそこの玄関口」  伸び上って見ようとして、急にカウンターから飛び出してきた。 「あんな所に置いてたら持ってかれてしまう!」(まだ持って行かれてはいなかった)。「中庭に置きなさい。夜は鍵がかかって持ち出せないわ」
 中庭には既に2台の自転車が置いてあった。 雨が降り出しそうな雲行きなので屋根付きの場所に置きたかったが、贅沢は言えない。そのまま自転車はユースに置きっぱなしで、遅い夕食に出かけて行った。
 繁華街へ通じる薄暗い路地で、大きなバッグを引きずったお嬢さんに急に声を掛けられた。 「アノー、ユースはこの近くです?」 「ええ、すぐそこですよ。そこの広い通りを向こう側に渡った所です。私は今、そのユースを出てきたばかりです。」 「ありがとう」 「どういたしまして」  人に道を教えるのは嬉しいものだ。ついさっきまで探しまくっていた宏も御機嫌である。
 ユースの姉さんに教わったイタリア系のスナックで軽食を取った後、せっかくだから観光しながら帰ることにした。
 
少し怖かった。何と言ってもいきなりの外国の夜の街。それでも10数年前のロンドンの夜を思い出しながら、ブラブラと真夜中の市内を歩き回った。モニケンピッツ(しょんべん小僧)の街ブリュッセル。スリが気になるほど街中はにぎわっていた。

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2009年4月15日 (水)

切腹の美学(大人のイソップ-1)

 長年勤め上げてきた会社から、実質的な退職勧告を受け取った。
『御苦労様でした。(もう使い道は無いので)切腹をしてくれという御厚意だなと思った。
陰に日向に、25年間お世話になった方々に挨拶をし、その後の一切をお任せして、その日のために"辞世の句"でも考えようかな、という静かな日々を過ごしていた。

 何日か経って、突然お城から呼び出しがあった。
指定された日に登城すると、「もう一年勤めることを許す。給金は大幅に減額であるが、破格のお取り扱いだ。これはお殿様直々のご厚意である。有り難く謹んで受け取れ」との"口頭の"お達しであった。

 その男は、突然のことに目を白黒させながら、「御厚意、有り難く受け取らせて頂きます。来年のことはわかりませんが、1年後に、『まだ生きていて勤務に努めてくれ』とのお言葉が頂ける様、精一杯勤め上げさせて頂きます」と、返答した。
これに対して上役が言うには、「勘違いしてもらっては困る。来年はこのような話は絶対に起こらないのだ。1年後には切腹しかないのだ。この御厚意が受け取れないなら、即打ち首だ」。
 まじめなこの武士は、返答に困った。 心の中で、「それなら今、切腹させて頂く方がマシじゃないかな?これは本当にお殿様の御意思なのだろうか?と、思った。
 2008227日 記

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2009年4月14日 (火)

「太陽と風"Solar and wind'」大人のイソップ・・・心のこもった暖かい福祉行政を!Board of Directors candidate requirement (Aesop in adults), and a hearty warm welfare!重役候補の必須条件。

in 2018 12/19Kiyomi-Yamanaka’ & Abe counselor to. Today in your-busy to expedite ‘Toyosaka’, home away from home, thank you very much. Rescue plan pending ‘Sumiko-Oyama’ decided course of action tomorrow (12/20) make contact in advance.
 2018 12/19
中山清実保健師&安部相談員様へ。
本日はお忙しい中、豊栄町の我が家まで足を運んで下さり、有難うございました。懸案の
小山澄子の救出計画について、明日(12/20)の行動方針が決まりましたので事前に連絡しておきます。
要旨:「中山さん達と一緒に送った『内容証明郵便』であり、姉武子に受け取ってもらえないまま1週間の保管期限切れで、私に送り返されて来た内容証明郵便は、
明日、小山澄子に届けることに致しました。その時、澄子母さんに事情を話し、お母さんの意志を、ハッキリと表明して頂く事とします。
 澄子母さんには次の3つの行動が選べます。・・・
Abstract: "Decided to deliver tomorrow, ‘Sumiko Oyama’ came sent me and sent along with the pure beauty in the mountains were" content-certified mail, and don't take my sister remains in custody has expired, one week in "content-certified mail" is. At that time, talk to my mother Sumiko, she will receive expressed clearly. Sumiko mother can choose the following three actions. ...

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人員削減処理(大人のイソップ-4)

 15年前のあの日宏は受話器に手を置いたままで心を決めた、『この電話が御曹司につながったら会社に残ろう。もし繋がらなかったら、明日の"特別早期退職公募"に、みずからが名乗り出よう』と。
 電話口に秘書嬢が出た。「至急、若専務にお会いしたいのですが、御時間を取っていただけませんか?」
「しばらくこのまま、お待ち下さい。伺ってみますので。」・・・、「30分くらいなら、ちょうど空きがあります。すぐに上がって来れますか?」
 にこやかに迎え入れられて、御曹司と宏の2人っきりになった。
「どうしました?」
「もう限界です。技術に戻して頂きたいのです」。涙が滝のようにボロボロとしたり落ちた。それを宏はぬぐいもしなかった。
「・・、技術に帰って何をやってくれるのですか?」
熱流体の研究を行いたいと思っています。我が社製品に取って熱流体は、必要不可欠の技術だと思っております。その研究を通して、社業に貢献させて頂きたいのです」。 「わかりました。但し、前代未聞ですよ、わずか半年で職場を異動するのは。」 宏は静かに人事部人材開発課の席に戻って行った。
 その日の夜中9時過ぎであった。 
突然、自宅の電話が鳴り響いた。受話器を取った妻の顔が青くなった。「 A部長さんからよ」。受話器を受け取った宏の耳に、いきなり怒声が飛び込んで来た。お叱りの御電話であった。 宏は言葉に詰まりつつも、応対に努めた。
 15分位して、その叱責の電話は切れた。
「どうするの? 私達どうなるの? どうしたらいいの?」妻の言葉は悲鳴に近かった。宏は、恐怖のどん底に落ちて行く自分達を感じた。
 あくる日の公募の受付開始時間は9時からで、2日間の予定であった。長い行列が各工場で起こり、10時には、380人に達して"札止め"ストップが、アナウンスされたそうであった。
 地獄の10日間が過ぎ去った。
 自分の机と本箱とを手押し車で運びつつ、宏は一人静かに元の技術の部屋に移動した。 後で人伝手に聞いた話では、「役員会議で若専務が強烈に"宏を技術部門に返す"方向に導かれた」とのことであった。
 数年後、A部長は監査役に就任なさった。が、「次期取締役の第一候補」との下馬評があったので、社員間でもっぱらの噂が飛び交った。
 若専務が社長に就任なさってからでも、既に10数年が経過している。 妻は今でも、宏の"ヨーロッパ縦断自転車の旅"の話になると、あの夜の恐怖がよみがえるらしくて、感情を乱す。「あの縦断旅行さえしなければ、こんな苦労はしなかった」と聞かされるたびに、宏は複雑な思いになるのであった。

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信原医院での筆談が示唆した未来。・・・どうしてこうなるの?(平和って難しい)

2018/12/01(土)、中山保健師殿、9年前に書いた以下の記事と、今回の『澄子の願いをかなえて署名活動』とが、切っても切れない関係にあった、なんて信じられますか? コメントは後回しとして、先ずは以下、9年前の大山宏の公開ブログ記事(日記)をお読み下さい。
 ”義母・義父の検査結果をきかされる?”
 2009328日(土) 義父邸に着いて、飛び込んできた光景にびっくりした(自分の目を疑った)。義父が古い母屋(おもや)の軒下に座って居られたのだ。出発の支度は既に済んでいる様子だった。昨日介護支援(援助)して下さった小池さんという女性も傍に居られた。
小池「・・・、私も今来て(古い御母屋に居られたのでびっくりしたんです」
朝御飯を御母屋で取ったのだそうだった。『昨日あれほど苦労して義父に転居してもらったにもかかわらず、元の木阿弥じゃやあないか』と、宏はいぶかしく思った(理解に苦しんだ)。 が、しかし、『信原医院に出発するのが先決!』と思い直し、その準備に移った。・・・ 

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2009年4月13日 (月)

男の料理。私はズボラよ!ヘルパー契約。山中浄美さんへ「電話を待ってます!」Sbla man dish (fried Oyster) I'm! Helper contract. To Kiyomi-Yamanaka, "waiting for your phone calls!"

 山中浄美(保健師)さんの御意見を伺わせて下さい。
 下記は、2009年4月に、定年後の再就職活動のために帰広した時の記事です。ヘルパー契約は同居者がいると出来ないのでしたね。愛南町(愛媛県)でも、その様子でした。 私が澄子母さんを自宅で老々介護する場合にも、無理なのでしょうか? これは悪法(福利行政上の問題)だとは思いませんか?
 これを理由に、『施設介護が必要だ。⇒澄子の願いはかなえられない』の論法は納得できません。私は男料理には慣れましたし、母澄子は(私を教育するために)きっと若返るはずですしかし、宅配サービス的な食材提供とか、掃除・選択・入浴補助などの援助が得られるなら大変助かるのは事実です。安価な公的支援を望んでいる訳ではありません。16万~20万円/月程度で家政婦を紹介』して頂けませんか?
 これさえも『ダメ。⇒病院か介護施設!』という杓子定規な扱いがまかり通っているのならば、福利行政サービスの在り方に問題あり!と言えるのではありませんか? 地域包括支援センター山中浄美(保健師)さんの御意見を伺わせて下さい。
備考》野外の車椅子散歩道の整備が割方整いました。文化財(エノキ・カヤノキ・わらぶきの館・里道・・)を見学に訪れる訪問者に対して、母が立派な説明員の御奉仕に生き生きとした生活を送れるように配慮してやって下さいませんか。東広島市の名所旧跡のひとつに我が家がなり、母と私がボランティアできることを夢見ています。電話を頂戴できますでしょうか
           大山宏
TEL:080-6559-6060
 以下本文です。
【1】
初めての”カキフライ料理”

 その晩、宏は生まれて初めて、料理に挑戦した。牡蠣(カキ)フライである。 スーパーで買い置きしていた岡山県産の牡蠣を東京に帰る前に処分しておく必要があった。実母ひとりになっては、とても食べ切れる分量ではなかった。
「母さん、今夜は料理に挑戦してみるよ。お母さんは座っていて やり方を指導して!」
「これからは男も料理ができないといけないね。分かった」。
母が透明容器に密閉された牡蠣(かき)を、冷蔵庫から取り出す。

「まず、サッと水洗い。」
「こうか?」
「違う。そこの”通しざる”を取って。それじゃない。中くらいの大きさのもの。」
「これか。・・・。で、こう開けて、蛇口の水をかけるのだな。」
「違う。一個一個丁寧に手で洗っていく。このように」(もう既に母の手が出てくる) 

「分かった、分かった。こうだな。どうして洗うの?」
牡蠣(かき)の殻(から)が残っていると、食べた時に口の中を怪我(けが)するから。」
「なるほど。」といいつつ、宏は丁寧に洗っていく。
突然腰が90度に曲がった実母の動きが急に激しくなったアルミのトレーを2つ取り出して、小麦粉とパン粉をザーと開けて行く。
「母さん勝手に進めないでよ。今、私が料理を習っている最中なのだから。」
「見ちゃおれないよ。料理には”素早さ”も必要なんだよ」
「母さん、それでは料理はいつまでたっても覚えられないよ。母さんに後で『くたびれた。くたびれた』って言われたら、僕(ぼく)の立つ瀬がなくなるんだよ。」
それには答えず、食台の上に大きなアルミトレーを置き、その上にキッチンペーパーを広げていく。
何とも手際(てぎわ)が良いが、宏は牡蠣(かき)をまだ洗っている。 横目にチラチラとその作業を観察(学習)するのは、会社の仕事以上に緊張もするし、ハードな仕事だと思った。

小さなボールに卵2つを割り、箸(はし)でかき混ぜ始めた。
 
「それやるよ。中腰でそんな事されたら、あとが大変だ。それでなくても僕が帰った後で『つかれた疲れた!って、みんなに言い回るんだから。」と言いつつ、そのボールを取り上げる。

「軽くやればいいの。泡立ち過ぎるもの良くない。そうそう その程度でいい。」・・・
「次は、カキを一個づつ丁寧に、小麦粉の衣付け ⇒卵に浸す⇒パン粉にまぶして並べていくの」
「・・・、そうじゃない。卵が付いてない所があるでしょ。こうするの
「母さん頼むから座っててくれないか? こうか?この様にするのか?」
「そうそう。くっ付かないように丁寧に並べて!」
母が台所の下の方から深いフライパンと油とを取り出し、ドボドボと注ぎ込んでいる。
 ・・・ ガスコンロに火を付ける。

「温度はこうして調べる」と言いつつ、菜箸(さいばし)をフライパンの中に突っ込んでみせる。
突っ込んだ瞬間に菜箸(さいばし)の周囲から小さな泡が、ボワーと上がって来たら、火を弱めて、パン粉をまぶした牡蠣(かき)を一つづつ、そろりと、大砲の弾(たま)を静める如くに入れて行く」。
「このようにか?」
「そうそう。それでいい。3つ位がこの小さなフライパンでは限界!それ以上だと、フライ同士がくっ付くでしょ。」
"小麦色の頃合い"になったら取り出せば出来上がりなんだけど、15~30秒くらい毎に、菜箸でひっくり返すのが、コツ!」
小麦色というのが、どの程度の色なのか、何とも不可解ではあったが、ともかく指示通りに揚げ、丸っこく膨らんだ”カキフライ”が、キッチンペーパー上に並んで行く。

「くっ付かないように整然と並べなさい」との指示だったもので、最新の注意を払って並べていく。
 卵が3個も必要だった位に、大量のカキフライだった。終いには,キッチンペーパー内に収まらなくなってしまった。

「乾いたものから、重ねていってもいい。」
『要はくっ付かなければいいのか)』と、臨機応変に対処していく。
 
・・・ ついに、完了!
 立ちずくめで、へとへとだった。
『料理とは肉体労働なんだな』と、思った。
6個位のカキフライを西洋皿に盛り付けしキャベツ千切りにして添えて、夕食とした。

 どういう訳か、意外に食欲がすすまなかった。
 
無理に胃の中に押し込んだためか、次の日の朝も、油の匂いが口の中に残っている気がした。
『揚げ物料理をすると(その匂いで酔ってしまって)食べられなくなる』と、家内が言っていたのを、ふと思い出して布団の中で宏はひとりうなずいた。

 【2】
”私はズボラよ”
 布団の中で、昨夜のことを思い出していた。・・・

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