« 自殺未遂--記憶喪失(大人のイソップ-7) | トップページ | String:ひも(Maupassant), Resistance strategy; Set Bell on the Cat.[猫に鈴作戦; Grassroots] “Here's where? Who am I?" »

2009年6月 9日 (火)

久々の散歩--出刃包丁(大人のイソップ-8)

2009、3月13日(金)  夕日が部屋に差し込んで来る時間に、その老人は古新聞の切り抜きの囲碁譜を見ながら碁盤上に白黒の石を並べていた。そこに妻が帰って来た。「たまには運動をした方がいいよ。散歩に行こう。」「・・、そうだね。そうするか。」
 手にしていた碁石を箱に返して、妻と連れ立って近くの公園に散歩に出かけた。「この前のように、勝手に先々歩かないでくれ。散歩なのだから、私のペースに合わせて歩いておくれ。」「半歩下がって歩けばいいのね。」「腕を組めとは言わないが、私と並んで歩いてくれ。足元の花を見たり、山々を見渡したり、ゆっくりと散歩させてくれ。」
 公園の入り口までは、二人はゆっくりと並んで歩いていた。久々の会話がぽつぽつと進んだ。老人は少し打ち解け、最近起こったことを思い出しつつ、胸の内の苦い思い出を断片的に語り始めた。感きわまって目頭が熱くなることもあった。妻の歩速が、早くなった。既に、2歩先を歩いている。( 聞きたくないのか?)
「並んで歩いてくれ。私のそばを並んで歩いてくれよ。散歩なのだから」。2度 3度と、妻にそれを頼んだ。既に夕日は西の空に沈みかけていた。妻は15歩も20歩も先を歩いている。「寒くなったので、先に帰る。」「そうか。私はもう少し散歩してみる。」 『またか』、と思った。
 冬空に暗い夕焼けが広がった頃、老人は重い足取りで自宅のドアを開けた。
「ただいま。」と、ダイニングに入る。妻と目が合う。そこには豹変した妻の姿があった。「何をペラペラとあちこちに言い回っているの。私が狂っているって、あちこちに電話しているでしょう。いい加減にしてよ。」 目は3角であった。
 こんなことが起こるだろうことは公園で予期していた。いつもの事である。義次兄から電話があったらしい。2~3週間前に電話でうっかり「久美子と義長兄の妻とが同じ病気(健忘症)」という話をしていた。義次兄は中学時代の学友でもあって、つい気を許して喋ったのが悔やまれた。その場はなんとか切り抜けた。
 7時頃、夕食を食べ始めた。テレビは点いていたが聞こえない。老人の頭の中は、妻のとげとげしい言葉でいっぱいであった。箸だけが機械的に食器と口との間を往復している。夕膳の焼き魚を半分位食べたところで、老人は急に食べれなくなった。胸が急に苦しくなった。
 慌ててトイレに駆け込み、吐いた。直前に食べたものは、全て吐き出した。それでも横隔膜の痙攣(けいれん)は止まらない。粘液のようなものを”吐いては水洗のコックをひねる”という動作を繰り返した。涙が出るほど苦しかった。トイレにしゃがみこんでいた。
「大丈夫?」
「背中をちょっとたたいてくれ。」1分間ぐらい、妻は背中をたたいてくれた。少し嘔吐(おうと)は納まったように思った。しかしその後、何回もトイレに駆け込み、粘液を吐いた。赤い筋状のものが混じっていた。よく見ると それは"血"だった。胃壁が破れた時の血ではない。多分食道のどこかが傷ついて出血したのであろう。
 30分くらい吐き気は続いた。まだ胸に痛みがあり食欲はなかった。(食台の食べかけの夕食も既に片付けられていた)。老人は寝室の布団に もぐりこんだ。

2009  3月14日(土)  翌朝、5時前に目が覚めた。御腹は空っぽなはずなのに、食欲が全くない。食卓上にあった梅干2つをしゃぶり、お茶を飲んだ。ベランダでタバコを吸って、また布団に潜り込んだ。
 暫くして台所で音がし始める。妻が朝食の準備にかかったのであろう。「食欲が無いので、朝食抜き。」を伝え、また布団に潜り込む。妻は、プイッ とキッチンを出て行き、自分の部屋に移っていった。『 あの調子では、妻も食べないのではないか? 私はメタボなので、2,3日食べなくても済むが、痩せている妻が食事を取らないことになると、精神的にも肉体的にもダメージが大きい。』
 そう思って、老人は起き上がり、ダイニング&キッチンに向かった。いつもの様に御飯ぐらいは炊いておいてやろうと、水洗いして置いてあった米を鍋に移し、コンロにガス点火した。その時何気なく調理代を見て、背筋が寒くなった。
"菜っ切り包丁"が刃を上にして置いてあった。それだけならまだいい。いつもはほとんど使わない”出刃包丁”が出してあり、それも 刃を上にして 置いてあった。その瞬間、1ヶ月ほど前に、田舎の実母と交わした会話を思い出した。
「刃物は皆 隠しておきなさい。」「母さん それは無理だよ。久美子さんは料理しているんだよ。包丁を隠すなんて訳にはいかないでしょう? 久美子さんは洋裁をやっているんだよ。いくら危険だからって、”鋏(はさみ)”を取り上げることなんて、出来る訳がないでしょう? いいかげんにしてよ。ハハハ。」と、笑い飛ばした事を思い出した。

『どうしようか?』と迷った。『 出刃包丁だけでも、何処かに隠そうか?』と考えた。結局、”菜ッ切り包丁”は横倒しに置き直し、柄までオールステンレスの鋭利な”出刃包丁”は、そっと、足元の開き戸棚に戻して置いた。
 鍋で御飯を炊く間、コンロのそばでジッと考えていた。恐怖を感じたその出刃包丁は果たして偶然だったのだろうか?それとも一瞬ではあろうが、妻は本当に殺意を抱いたのだろうか? 自分が自殺する意思表示をしたのではないか?「死ね!」という意味か? その老人は統計数学が得意であった。偶然にその事象が起こる確率(可能性)を考えてみた。
”菜っ切り包丁”だけなら問題ない。常時調理台上に置いてあるし、簡単に刃を上にして置ける。問題は出刃包丁だ。その老人は一旦収めた出刃包丁をそろりと引っ張り出し、はたして刃を上にして置けるのかどうか、実際に試みた。何度も試みてみたが、刃を上にしては(元あったようには)立てられないのであった。
 不思議であった。柄までスレンレス製のその出刃包丁は、背面がわずかにカールしていて、立てられないのだ。ふと、2本の包丁の間にスプーンが1本あったのを思い出し、『寄りかからせてあったのかな』と、思った。出刃包丁をコンロの縁にちょっと寄りかかるようにしてみた。
かなり神経を使って、やっと出刃包丁は、刃を上向きにして立てることが出来た。でも、さっき目に焼きついた状態とは、かなり異なっているようだった。スプーンを取り出して再度試みることは止めにした。”恐怖心”を感じたことだけが記憶に残った。不安だった。
 御飯が炊けたところで、妻が寝ている部屋のドアを開け、「俺はメタボなので、2,3日食べなくても済むが、久美子は食べなきゃ参ってしまうよ。食欲はないけど、梅干位で俺も食べるよ。用意してくれるか?」「 大根おろし、すろうか?」「ああ、頼む!」
 後日、「包丁が2本立てて置いてあったけど、あれはどういう意味?」と、聞いてみた。「・・ああ、あれは、乾かしていたのよ。前の夜、魚を料理したでしょ?それで!」
『理由は、何とでも付くものなんだな。』と その頭髪の黒い老人は思いつつも安堵した。

|

« 自殺未遂--記憶喪失(大人のイソップ-7) | トップページ | String:ひも(Maupassant), Resistance strategy; Set Bell on the Cat.[猫に鈴作戦; Grassroots] “Here's where? Who am I?" »

T呪殺,言葉で相手を殺す。脅迫。幸せへのノウハウ秘訣」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 久々の散歩--出刃包丁(大人のイソップ-8):

« 自殺未遂--記憶喪失(大人のイソップ-7) | トップページ | String:ひも(Maupassant), Resistance strategy; Set Bell on the Cat.[猫に鈴作戦; Grassroots] “Here's where? Who am I?" »