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2009年12月

2009年12月30日 (水)

35)、5年~"若返る"薬

不老長寿の薬 を求める話は、聞いたことがあるでしょう?」 「何千年も前から、時の為政者が血眼になって捜し求めた話はよく聞く。それがどうかしたのか?」 「それがあるんですよ。不老長寿どころではなくて"若返りの薬"があるんですよ。私はそれを手に入れて飲みました」 「へー」

「薬とは言っても、口から飲む薬ではなくって、頭から飲む薬なんですが。それが証拠に私の頭は"真っ黒"でしょう」 「染めたんじゃないの?それともアデランスか?」 「違いますよ。染めてはいません。実は半年前までは、私の頭にも白髪が数十本有ったのですが、その薬を飲んだ途端に"真っ黒"になったんです。面白いでしょう」 「なになに、それ本当の話?」 「本当ですよ。あそこもビンビンの上向き45度。興味あります?」

という調子で宏は旅の話を広めていく。 「私もやってみよう」とは誰も言わないが、「さもありなん」とは同意してくれる。『それだけで5年は若返る。それでいいんだ。』 と思っての実践行動である。

会社からの帰り道、ある営業マンと一緒になる。 「こんばんは。お久しぶりですね」 「こんばんは。ホントだ。めずらしい」 「今も二階の電子営業におられるのですか?」 「そうです。来週の人事発令では50人くらいが退職していかれるようです。出向を含めると、もっとおられるみたいですね」

「挨拶に回って来られて、返す言葉がなくて、困ってしまいますよ」 「全くです」 「人の若さは気分次第で、大きく変わります。気の持ち方で、体力までも若返るものですが、会社もその気持ちの若さで、定年を延ばすとかなんとか、工夫してくれるといいんですが、、。」

「そう言えば、あなたは相変わらず元気ですね。何か秘訣でもあるんですか?」 「若返りの薬を飲みました」 「へえ、不老長寿の薬は聞いたことがありますが、若返りの薬ですか」 「薬とは言っても飲む薬ではなく、行動することです」 「行動ですか?」

「実は、チャージ休暇を利用して、丸々1か月、ヨーロッパを自転車で旅したんです。そしたら若返りました」 「そりゃあ素晴らしい!実は私も学生時代に自転車の趣味を持っていて、東京から九州の博多まで、3人で旅したことがあります」

「そうでしたか。趣味が合いますね」 「でも、段々と歳を取ってしまって、、。今49才ですが、子供が中学生の時に、一緒に自転車で千葉まで旅行したんです。自分の後ろを息子が付いて来ているんです。自分としては一生懸命ペダルを踏んで、かなり引き離したつもりで後ろを振り返ってみると、息子が平気な顔でついて来ているんです。あれはショックでした」

「ハハ。その若さに関してはかないませんよ。でも、持続力についての若さは別です」。 信号が青になり、横断歩道を渡りながら、「こちらの方はどうでした?」 と、手を口に当てて、パクパクさせておられる。

「現地で、場当たりで学習しました」 「へえ、」 「何とかなるものです。スイスの"山奥"からイタリアの"ド田舎"に入った時、いきなりイタリア語の世界です。英語もドイツ語も、全く通じません。まるで、未開の地に紛れ込んだみたいなものでした。

ちょうど自分の誕生日でしたので、何とか周囲の人達を巻き込んで、誕生日を祝ってもらえました」 「素晴らしい。まさに若さですね。」 駅の改札口が近付いて来る。「またいつか、武勇伝を聞かせて下さい」 「有難うございます。お恥ずかしい限りですが」 「それじゃ、また」 「失礼します」

押し売りはいけないが、天気の挨拶よりはマシだ、と宏は思う。 『 少しでも気持ちが若返る手助けとなれば、それで充分。』 そんな事を改めて思いながら、駅の階段を上って行った。

 僕の前には道はない(おしまい)    1994年 9月 30日  大山 宏

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2009年12月27日 (日)

31)、ソレントからポンペイの町へ

「それからどうしたの。ソレントへ渡ったんでしょ?」 「そう、次の日の朝早く島を抜け出して、ソレントに回って行った。母さんたちも確か、ソレントには行ったんだよね」 「一晩泊ったのよ。カンツォーネをオペラ劇場で聞いた。すごい迫力だった!」

「僕は通過しただけ。でも、港は特徴があって、それなりに良かった。街は絶壁の上にあるんだよね。町から港まで、長い長い溝のような下り坂があって、ちょっと面白い雰囲気だった。」 ・・・、

カプリ島で散財してしまって、手持ちのお金(リラ)がほとんど無かった。万一のために持っていたドルで、ホテルの支払を済ませようとは試みたが、「あなたは昨日の交換レートを知っているか?」 「いいや、知らない( "リラ"と"ドル"の交換レートなんか、毎日宏が見ている訳はない)。」

「銀行で替えた方が賢明ですよ」と言われ、船賃だけをわずかに残してリラを使い切っていた。銀行を探し当てての"交換手続き"である。 「どこから来たのか?昨夜どこに泊まっていたのか、書きなさい」 「どこって、島から来た。ウーンと、カプリ島だ(すぐ名前を忘れてしまう)」

どこに泊まっていましたか?」 どこでもいいじゃないか、と思うぐらいにしつこい。まるで尋問である。ホテル名は、白い猫という意味であったことは覚えている。もっとも白い猫の代わりに、朝食時に"黒猫"が足元を走っていたが、。「ホワイトキャットだ。ホワイトキャット」 「 ? 」 「有名なホテルがあるんだ。そこに泊まった。ウーンと、ガット(=キャット)・・、そうだ。ガトビアンコ」

真黒に日焼けして風体の良くない宏が、前夜泊まったホテル名を思い出すのに苦労しているのを見て、周囲の人達が笑っていた。お陰でこの"ガトビアンコ"というホテル名は一生忘れられない名前となった。

ソレントからナポリまでは約80キロある。海岸沿いの曲がりくねった道は、ゆっくりとした登り坂で、かなり高い絶壁の上の町"ソレント"は段々と低くなり、遠ざかって行く。海の色を含めて仲々の絶景であった。

ポンペイの遺跡 は、ソレントとナポリの中間地点にある。その日はよく晴れており、進行方向にベスビオ山が見えてきた。その山に向って走る。休息も十分であり、久しぶりに気持ちの良い汗が流れ出る。

遺跡内には自転車は持ち込めない。駐車場に自転車を預けて入場し、4時間ぐらい歩き回った。『 なるほどこれが、有名な(悲劇の)ポンペイの遺跡か 』 隅々まで見て回った。轍(わだち)の跡はあまりに深く、どうしてそんなになるまで修理しなかったのか不思議であった。野外劇場跡は敷石の色も鮮明で、古代世界の想いが漂っている。

ドイツの修学旅行生であろうか、男女混合で20人位がその野外劇場の石段に座り、ふざけ合っている。その内に、一人の女の子が皆に奨められる格好で中央に進み、プリマドンナを演じる。仲々の声量で、即興にしては上手過ぎた。皆にまじって宏も拍手を送った。

一瞬にして死の町と化したポンペイ! まだ発掘中の場所もあり、規模の大きさに唸らされる。発掘遺体も数体展示されており、生々しさは恐いくらいであった。

ポンペイからナポリまでは石畳の道が続き、渋滞がどんどん酷くなっていく。排気ガスも酷い。それでも宏は自転車で良かったと思う。あれがバスなら、まいってしまうだろう。自転車の旅は自由そのものであった。

翌朝、昼前にナポリを発ち、ローマのテルミニ駅には3時頃、到着した。駅の近くに宿をとり、半日ばかりのローマの休日を楽しむ。もちろん、有名なスペイン広場も、サンピエトロ広場も訪づれ、コロッセオ、フォロロマーノ、バラティーノの丘も見て回った。

規模の大きさには"びっくり"。 こんな文明が紀元前に起こることも驚異だが、その強大な帝国が滅んでしまう歴史の流れも不思議なものだ。

ローマの交通事情は良好であり、10時過ぎまで自転車で動き回って、ヨーロッパ最後の夜を満喫した。共和国広場では、あるレストラン専属のバンド演奏が行われていて、広場中央の噴水のほとりで、宏はいつまでも聞き入っていた。

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24)、ピサ駅前の広場にて。In the Plaza of the Italy city Pisa station waiting for a train to Rome.

 暖かい夕暮れ の駅前広場。 宏はベンチに腰掛け、ナポリ行きの夜行列車をぼんやりと待っている。満足感はあった。充分な達成感に満たされていた。出発時間には まだ5時間以上あり、引き返して"ピサの斜塔"のそばで過ごすことも可能であった。しかし、それはしなかった。引き返さなくてもその情景は眼に焼き付いていて離れなかった。それほど強烈な印象を 白亜の寺院 から受けていた。
 斜塔は予想外に大きな建物であった。それが天に向かって斜めにそびえ立っている。それだけではなく建物は他に2つあり、それらが一体となってこれまでに見たことのない形の白く美しい寺院を形成している。
そこで2時間近く過ごしたのであるが、飽きなかった。写真も沢山撮ったが、キツネにつままれていたような気もする。 今行ってみたら「消えて無くなっていた」というようなことが起こりそうにも思えて、引き返さなかった。
自転車はすでに折り畳んでバックに仕舞い込んでおり、リュックが一つ側にある。付近にはベンチが幾つかあって、列車を待つ人々がイラつく様子もなく、過ぎゆく夕暮れを楽しんでいる。
 
宏の横にも何人かの人が、入れ替わり立ち替わり座ってくる。どちらからともなく話は始り、ピサの良さ、旅の良さ を語り合う。自分の出身地の話をしていく。そして時間が来ると、"さよなら"をする。
一人に戻るとまた思い出にふけったり、日記を取り出して何か書き留めたりしている。『 意外に早く時間が経って行く。日本から持ち込んだタバコの残りが少ない。あと一箱あるだろうか?』 この3本が最後かもと思いつつ、ヨーロッパを汚すまいという信念で捨てないでケースに保持していた"吸いくさし"4本を取り出した。"しけモク"だ。
 こんな事を書いている最中に「一本くれ。」と言う中年のおじさんが来た(多分乞食である)。身なりは悪くないので「やろうか」とも思ったが、なにせ残りわずかだ。笑いながら、"吸いくさし"の並びを指差して『オーノウ( OH NO!)』のジェスチャー。 タバコ吸いも困ったものである。
『 自転車を愛する人の多くは、タバコは良くないという信念を持っておられるようで、私のようなヘヴィースモーカーは少なかった。それでも段々と吸う本数が減り、一日10本程度までに減った。止めればいいのに、とうとう"ピサ"まで来た。まあここまで来れたのだから、タバコも「よし」としようか。』
 退屈はしていなかった。旅の満足感に浸っていた。 水は噴き上がってはいなかったが、大きな噴水が正面に見える。そのほとりで(彼女達も夜行列車を待っているのであろうか)、中学生20人位が、歌ったりしゃべったり、動物の鳴き声をまねてふざけ合ったりしている。 その明るい笑い声は、ピサ駅前の雰囲気によく溶け込んでいた。

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21)、港街、ジェノバでの一夜。Harbor City: is talk spent the night on the shores of Genoa. Of course it is a homeless!

 アペニン山脈を越えた。峠には一方通行の小さくて古いトンネルが掘られており、信号待ちして進む。  この峠を下るとジェノバ。地中海だ。今夜はそこに泊まろう。』 宏は汗をかいた服を着替え、ズボンをはいて"正装"し、峠のレストランで一人、ワインで静かな乾杯をした。
 これが最後の峠であり、あとは海岸沿いの平坦な道が続くだけ。』 と思っての乾杯だった。実はこの後、大変な事態が待ち受けているのだが、宏は知る由もない。安心し切っての"ワイン"だった。
 峠を下る途中で小さなペンションを見つけ、立ち寄ってみた。英語が分かるマスターが応対してくれた。 ここで宏は欲を出し、宿賃の値切り交渉を始めたのだが折り合わず、"さよなら"することになってしまった。
それからである。探せども探せども、空いた部屋が見つからない。 峠の下り坂も終わり、ジェノバの街中に入っても、どこもかしこも塞がっていた。
 そのはずである。 その日は土曜日の夕方であった。
イタリア第一の港街であるジェノバは、アベックで満ち溢れており、彼らがホテルというホテルを占領していたのだった。 日はとっぷりと暮れ、生暖かい風が肌をかすめる。 その手の女性が数十名、20メートル間隔で客を待っている地帯を通り過ぎた。
『 彼女たちは客と寝る場所を、きっと確保しているのだろうな。』という想像は出来た。しかし、『 恐い 』とも思ったし、『 妻に申し訳ない 』とも思った。 そう思いながら、ペダルを踏む力を強めた。 街角に立つ警察官にも尋ねてはみたが、らちがあかない。
既に11時を回っている。遂に宏は意を決した。野宿である
 ベンチで一夜をあかすしかない 』 「イタリアは危険」という忠告が何度も脳裏によみがえる。まずは腹ごしらえにハンバーグを買って食べた。
 ジェノバの港の西の外れに街灯に明るく照らされた広い煉瓦通りがあった。アベックが多い通りで、人目をはばからず、岸壁のあちらこちらで濃厚なキスシーンを演じている。 『 ここが一番安全!』と判断し、ベンチに座って夜の更けるのを宏はじっと待った。
 一度たばこをせがむ"やから"が声をかけて来たが、毅然として追っ払う。『 アベックは怖くない。子供連れも怖くない。酒に酔った男数人がかたまって近付いて来ると、流石に緊張感が高まる。』 ただ、顔にはその"緊張"が表れないようにして、平静を装う。
 真夜中の1時を過ぎると、さすがの港街も ぶらつく人は少なくなる。おもむろに寝袋を取り出し、自転車と荷物を目立たないように置き直して眠った。役には立たないとは思ったが、荷物・自転車・自分の腕 をワイヤーロープで結んで寝た。『 襲われたら、襲われた時のこと。』 ことここに至っては仕方がない。 とにかく疲れて寝入った。

 3時間ちょっとの間があっという間に過ぎた。空はわずかに白みかけている。荷物も自転車も無事であった。 おもむろに寝袋を這い出し、岸壁で海風に当たった。無事であったことにホッとし、タバコを深々と吸った。

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15)、飯代をケチる'Rice fee I can save' that is a story. Ended up being mistaken for beggar!

 朝起きて顔を洗ってご飯を食べて・・・と書く日記を”飯食い日記”という。 私が最も嫌う文章パターンだが、なにせ[ 衣 食 住 ]は生活の基本だ。 旅の中ではこれがどんどん変化する。この食事の話に触れない訳にはいかない。( 脱線ついでに書きましょう。) この1か月の旅の中で、宏はたった3度だけ、レストランで豪勢な食事を取っている(ベルギーで2回、スイスで1回)。いずれも日曜日の珍事件。
  ベルギーでの豪勢な昼食・夕食
朝食をユースでしっかり取ってブリュージュに向かった旅の最初の日。 途中のアールストの町まで来ると12時近い。 自転車に取ってのガソリンは飯だ。さすがに空腹を覚えた宏は、オープンしている店を探してグルグルと回る。 たまに大衆レストランを見つけて入ろうとするが、中はごった返しており、「あと30分待って」と、申し訳なさそうに宣告される。
『 一人ぐらいなんとかなるであろう。』と思うが、若いマドマーゼルは中に入れてくれない。『 身なりがいけないのかな?』とも思い、リュックからズボンを取り出して短パンの上に重ね着して、頼み込んでみた。が、駄目! どうやら彼女達はテーブルを一人で占拠されることを嫌がっているらしい。 宏は(相席)でも構わないと思っている。『相席の方がいい』と考えているのだが、その地方の習慣の違いからか、フランス語圏のため よく分からない。 宏は次第に焦ってくる。
 ついに意を決して高級レストランのドアを押した。 ここでは空いたテーブルがあり、奥の方に導かれて行った。 7、8人が窓際のテーブルで、食事を共にしている。 奥は薄暗く、テーブルに着くとすぐに真新しい蝋燭(ろーそく)に火が灯され、辺りが少し明るくなる。 フランス語のメニューを渡されるが、読めない。 わずかに通じる英語と、わずかに思い出せるドイツ語とで、「自転車でブリュッセルから来たところで、大変お腹が空いている。」と伝える。
「これが美味しい」と推薦してもらったステーキ料理は、確かにおいしかった。ワインも勧められるままに取った。ドイツ語で「1グラス分でいい。」と伝えたつもりであるが通じないで、勢いよく一本抜かれてしまった。美味しい白ワインではあった。空腹感はなくなった。
ウエイターもリップサービスに努めてくれたので、(旅行ガイドブックの知識に従い)10%のチップを付ける。 随分と高い昼食となった。 窓際のグループの食事はまだ続いている。ヨーロッパの人々の食事の楽しみ方ビックリすると同時に、『昼食にこんなにお金を使っていたら持ち金が足らなくなる。夕食は質素にしよう。』と思った。そう思いつつも、「俺は酔っぱらっただ~。 ・・ 天国にいちまっただ~(日本語の歌)」と歌いながらペダルを踏みだしていった。
 ブリュージュのユースに到着し、同部屋となったドイツ人・フランス人の二人と少し会話を楽しんだ。 6時過ぎになった。「後で食事に出掛けるが、君も一緒にどうか?」と誘われた。 「市内見物に出かけたいので」と言って、宏は断った(内心では夕飯をケチりたかったのだ)。
広場の大時計の針が8時を回った頃、あの二人と出くわしてしまった。 当然、「一緒に」と話がまとまる。 またまた暗いレストランに連れて行かれてしまった。 『・・、夕食の440ベルギーフランは辛かった。今後は工夫すべき。』と日記に、反省の弁を書いておいた。
  『明日朝まで食事抜き?』の恐怖
 
次の日曜日はドイツのケルンで迎えたが、何とかお金をかけないで夕食を済ますことができた。 その次の日曜日がスイスのバーゼル近郊。 ドイツ国境を朝方越え、いきなりの日曜日の昼食だ。(宏は朝飯抜きだった)。 勿論バーゼル市内には大衆レストランはあった。が、スイスフランにまだ慣れない宏は「高い」と感じ、通り過ぎた。
1時を回って2時近くになっても、沿道で食料が手に入らない。手持ちのチョコレートなどは既に食べつくしている。 突然思い出したように、『 今日は日曜日だ。下手をすると明日朝まで飯抜きになる!』 と、焦り始める。
 こうなると人は弱い。とにかく食事にありつける所を手当たり次第に探しはじめ、沿道から1キロ以上離れた一軒のレストランにたどり着いた。(以下はその日記)。

『 昨日の日曜日は最悪で、スイスに入った直後だ。 街中の教会の鐘があちらこちらで鳴り響き、皆さん休みの日。 食べる所どころか食料品を販売している店がほとんど開いていないのだ。 2時過ぎになって、『こりゃあ大変』と思い、レストランに飛び込んだら、ボンジュールのかわいいお姉ちゃん! 隣のテーブルで配膳した後の余った料理までどんどん運んで来てくれて、私の皿に盛り足してくれる。 たら腹食い貯めたが、最高に高い物についた。 チップを10%あげたが、あの喜び様から察するに、スイスではチップの習慣が薄いようである。』
  ヨーロッパ旅行中の乞食?
 
ドイツのバーデンバーデンの近くであろうか、小さな村で夕方を迎えた。 少々空腹を覚えた宏は、小さなスーパーを見つけて自転車を止めた。 明かりは点灯してなかったが(中に人影があったので)ドアを叩いてみた。 50才前後の背のあまり高くない"おばさん"が、いぶかしげにドアの隙間から顔を覗かせた。
「日本から来た旅行中の者です。食糧が欲しい。入ってもいいですか?」 「・・どうぞ・・」と、躊躇気味にドアを開け、店内の蛍光灯のスイッチを入れてくれる。 宏は気にもかけずにドアを押して入り、商品棚を物色していく。
 おばさんは恐る恐る(?)宏について歩く。食パンを取り、バナナを取る。更に缶詰棚の前に立ち、「(缶切りを持っていないが)これを食べる事ができるか?」 「これを食べたいのですか?いいですよ。開けてあげましょう。こちらに来なさい。」と、レジの奥に案内してくれる。
 缶切りとお皿を出してくれ、ナイフとフォークまで貸してくれる。宏は缶詰を開けて食べ始めた。(おばさんはそばで見ている)。 食べながら昨日はどこどこ、今朝はどこそこから走って来たと話をする。 その内に水が欲しくなって、「ヴァッサー(水)が欲しい」
「わかった」と言いながら、商品棚からミネラルウオーターの瓶を持ってきた。 「違うんだ。コップの水が欲しい。」と、蛇口をひねるパントマイムをする。「ウン、ウン」と うなずきつつ、コップに水を汲んで来てくれた。 「バターをパンに付けますか?このオレンジ(機内食で出てくる小さなパック)は食べますか?」 「ありがとう。」
 段々とテーブルの上が豪勢になってくる。
満腹になったところで、「残りのパンを持って行ってもいいかな?」と聞くと、包み紙をくれた。 「満足しました。いくらですか?」と聞くと、「お金はいらない」 との返事。 この時点になってやっと、自分が乞食に間違えられていることに気が付いた。
 宏は笑いながら、「お金を払わない訳にはいかない。これら食べた物は貴方の店の商品だ」 「いい。あげます」 と、押し問答している内に、「ちょっと待って」と言って、電話をかけ始めた。 「今、私の息子がやってくる。ウニヴェルジテート(大学)に行っており、英語が喋れる」。
 既に誤解は解けていたが、おばさんはまだ、「プレゼントする」という。「わかった。バターとオレンジは有難くいただく。しかし缶詰とパンは払わせて下さい。いくらですか? ここに値段をリストUPして下さい。」と言いつつ、ウエストポーチからボールペンを取り出し、皿の上に乗っていたナプキンを渡す。 しぶしぶ値段リストを書いてくれた。 やって来た息子に事情を説明し、みんなで大笑い。(握手して)宏は、その店を出て行った。
  朝の食糧調達の習慣
 
スイスでの2日目の朝は、料理しないで食べられる食品を手に入れるのに苦労した。スイスにその習慣が薄いらしい。 朝食なしのボロのペンションに泊まっていたこともあって、お腹がペコペコ。 9時過ぎになってようやく食料品店を見つけた。
「サンドイッチが欲しいんだ」と叫ぶように言う。 察しの良いおばさんが、「肉を選びなさい」と指差しながら何か言う。「この肉を!」と、宏も指差す。大きな肉塊をスライスしてくれる。彼女が更にパンを指差して挟む仕草をする。「そうだ」と宏は首を縦に振る。
「ここで食べてもいいか?」 「いいですよ」と言いつつ首を縦に振る。 もう一つ作ってもらい、ジュースやバナナなどを仕入れて、ローザンヌへ向け出発して行った。 朝から大量に食料を仕入れると荷物にはなるが、これだけは必ず実行する習慣が身に付いた。
 ケチケチの貧乏旅行も、既に半ばを過ぎている。

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11)、ジプシー風の女性と、Gypsy like woman I met on the train.

 アイセル湖北端を抜け出て10キロほど進んだ所に小さな港町があった。ハーリンゲンの港である。 熱いコーヒーとトーストにあり付いた宏は、その駅から電車に乗ることにした。旅の北限の町。と同時にオランダでの最後の町となる。 少なからずの達成感はあった。いよいよ南下だ。
 宏の計画は、五段階に分かれていた。 第一は、今終えたベルギーからアイセル湖北端までの、北海沿いに走る旅。 第二は、ライン川沿いにスイス国境のバーゼルまで、ドイツ国内縦走の旅。 第三は、スイス国内のアルプス越え。 第四は、イタリアのピサの斜塔までの旅。第五は、「おまけ」というか、ゆとりとしてローマ辺りで時間調整。
 安い航空券の関係から、6月23日夜のローマ宿泊は絶対であった。その他、一切の時間的制約は排除してある。
 宏は保険嫌いであった。ただ、日本から持ち込む自転車の盗難は心配していた。『自転車を盗まれると、全ての計画が狂う』。このたった一つの理由から28日間の保険に加入した。成田到着の25日は適用外。計算を誤ったかもしれない。
 「神は気まぐれ」は、宏の口癖である。 この辺りを大自然という神はどう審判なさるのか。 ともあれ、第一段階は無事終了。 第二段階は今、始った。 宏はドイツ国境の街エメリッヒ行きの切符を手にしている。 車中では装飾品を造って売り歩くというジプシー風の若い女性と、隣り合わせに座った。
「どこに住んでいるんですか?」
「オランダの北の方。ドイツ国境に近い辺り」
「装飾品はどうやって手に入れるんです?」 「父が造るのよ。父が出かける時は私が造る」
「そー。じゃあお父さんが居ないときは、君が社長さんなんだ」 「そんなところよ。フフフ」
「いつもあちこち売り歩くのですか? 楽しそうですね」
「それなりにね、楽しんでる」
 彼女は手提げ袋からタバコの包みを取り出す。まだ紙にくるんでない千切りタバコであり、それを器用に紙巻きタバコに仕上げて吸っている。巻き上げたあと、細い舌を出して唾でくっ付ける仕草がなんとなく色っぽい。 宏はもの珍しそうに見ている。
「あなたもやってみる?」
「トライしよう」。 すぐ乗って行く。 道具一式を受け取り仕掛ったが、仲々うまくいかない。 「こうやって巻くのよ」 彼女は巻いて見せ、舌を出そうとして一瞬動作を止め、宏を上目使い見た。「自分でやりなさい」と手渡す。
 吸ってみるとかなり軽いタバコであった。詰め方で強さが変わるらしい。 座席の回りに煙が立ちこめていく。
 しばらくして彼女はまた何か、白い粉薬のようなものを取り出した。「やってみる?」 これにはちょっと躊躇した。 「こうやるのよ」 彼女は手の甲羅に少し粉を乗せ、鼻の近くに持って行き、反対側の手で手首を叩いて、タイミングよく飛び跳ねた粉を吸い込んで見せた。「やってみなさい」 とさらに勧める。 しかたなくトライしてみた。 メンソレータムのようなきつい味と臭いがした。ハッカの刺激にも似ていると思った。
「私、時々占いもやるのよ。占ってあげようか」
「やってみて」  しばらく沈黙が続いたあと、おもむろに彼女は少しいたずらっぽく宏に向かって言う。
「あなたは雲を運んで来ているわね」 「雲?」 「そう、黒雲。雨に遭うわよ、きっと!」 「嬉しくないね、自転車乗りには」 「何回も遭いそうね」 「天気予報がそうなっていたのか?」 「違うわ。占いに出てる!」
 
窓の外はうす雲はかかっているものの、お陽さまが出ており、今日は降りそうにない。宏は話題を変えていった。 旅の中で数多くの女性にあったが、彼女は少し恐い女性のような印象が残った。

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10)、若返り。関東の景色も捨てたもんじゃない

どんどん若返っている。 数十本はあった白髪もほとんどなくなり、頭髪は真っ黒に変わった。 自分でも不思議だ。 顔も、手足も、日焼けして真っ黒だ。 夕暮れの富士山がきれいだった!』

このゴールデンウィーク中、宏は体力チェックのため自分の住んでいる相模原を中心に、近県を動いてみた。 まずは八王子から青梅辺りまで。 次の日は一気に小田原まで往復。 帰宅は夜の10時頃となった。 一日置いた次の日は湘南海岸を走って城が崎で一泊し、三浦海岸を回って帰ってきた。

5月連休の最後の頃、旅行社との打ち合わせやユースホステル会員券のこともあって、新宿まで出かけた(勿論自転車)。 東京にもユースはいくつかあって、飯田橋には高層ビルの17階にも在った。 ちょっと恥ずかしくはあったが、その日思い切ってそこに泊ってみた。

「東京観光に便利がいい」ということで、海外の若者のたまり場にもなっている。同部屋となった大学生と一緒になって、外人ハンティングにもトライしてみた。 向こうに行ったら否応なしに話さなければならないのだ。少しでも勘を取り戻しておきたかった。

こじつければいくらでも出かける所はある。 翌朝は羽田に飛行機を見に行った。 『ひょっとしたら生きては帰れないかもしれない。』と大げさに考えて、洗足の伯父さんの家に立ち寄たりもした。 万一の時を考えて府中市に住んで居られる会社の上司宅も、自転車で訪問した。

関東の景色も結構いける。日本の風景もすてたもんじゃない。』

毎日行ったり来たりしながら、総計500キロ位を走った。段々と体力も付いてきた。 「そんなに走っていたら、ヨーロッパに行くまでにバテてしまうんじゃないの」と、妻は宏をからかう。 「ヨーロッパは止めて国内旅行にしたら」 とも言う。

かなりの距離を走ってみたのは自転車の乗り慣らしの意味もあった。ねじの緩みは自転車屋の兄さんが直してくれた。 自信も付き、少し楽天的になってきた。 仕事のことは忘れ、宏の頭の中にはアルプスの山々と、地中海の明るい海岸線イメージが次第に広がっていった。

迷い   宏はチャージ休暇をどう過ごすかについて、会社ではほとんどしゃべらなかった。 友人にきかれると、ただ、「ヨーロッパを旅行してくる」 とだけ答えた。次の質問は決まっている。 「奥さんと二人でか?」 「いいや、一人で」 誰もが”けげん”な顔をした。 もっともである。宏自身も、『この年齢では妻と二人で過ごすのが一番適切なチャージ休暇の過ごし方だ。』と思っている。

『妻がその気なら自転車での旅行をすんなりあきらめ、パック旅行で済ませたい。』 これは夢を捨て去るきっかけとして充分な理由となり得た。 しかし幸か不幸か、彼の妻は最近働き始めていた。 「休みを取るのは無理よ。一人で楽しんで来なさい。お金もないし。」

本人はあっけらかんといっているのは分かるのだが、宏にとっては相当にこたえる妻の言葉だった。 『 出来得る限り、安くやって来なければならぬ。』  新たな旅の条件が加わってきた。

6年前(長女が中学2年生の時)、あるきっかけからヨーロッパ縦断の夢がかないそうになったことがあった。某航空会社の新聞広告”夢募集”に入選したのだ。 その夢企画が、娘をダシに使った「娘と二人のヨーロッパ縦断自転車の旅」であった(特選からはもれたので、実現しなかった)。

「今回も一緒にどうか」と、誘いかけてみた。 「お父さん一人で行って来なさい。私は一人でスペインに行くんだ。」と、つれない返事が返ってきた。

宏はまだ、ぐずくずと思い悩んでいる。そんな訳でほとんどの友人には、自転車で縦断してくる事を明かさなかった。 もっとも『打ち明けたい』という気持ちも一方にある。 公言することで、気持を固めたいのである。 出発の2週間前(航空券を手に入れるまで)、宏の気持は揺れ続けていた。

5月28日、成田へ  とうとう始まった。成田までは遠い。5時半起床。娘達も見送ってくれた。 妻にたびたび「危ない事はしないでね。」と言われたのには閉口した。 『危ない限界を確かめに行くのだ。危ない訳がない。』とは言えない。 一応の準備はした。あとは成り行きでその日その日の臨機応変を自分に求めていこうと思っている。

上野で京成電鉄に乗り換えた。荷物が肩に食い込んで重い。自転車はバック込みで15Kg。 航空機の重量制限一杯の荷物をリュックに詰め込んである。 最悪を考えて寝袋も入れた。サイクリング友達の中には、「テントも持って行くべきだ」 「チェーンの予備も、タイヤの予備も持って行くべきだ。自分なんかはボールベアリングまで持っている。これがサイクラーの常識だ。」 とか何とか色々と助言してくれたが、止めて正解だった。 とにかく重い。

軽装備に多少の不安を感じつつも『 これで充分!』と自分に言い聞かせながら駅の階段を登っている。 シャツもズボンも予備はない。 必要なら現地調達を決め込んでいた。

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2009年12月25日 (金)

ヨーロッパ縦断,自転車の旅:海を仕切る堤防:ピサの斜塔:シンプロン峠::

Photo_3  チャージ休暇(1ヵ月)をフル活用して、ヨーロッパを縦走した時の写真です。 これは、アイセル湖の堤防。
長さは30Km、向こうが見えないでしょ! この土手の向こうは”北海”です。
Photo
 スタートはベルギーのブリュッセル。そこから欧州で最も美しいというブリュージュ目指して走りました。
 ブリュージュからはオランダ北部のアイセル湖まで北進。
 ドイツ国内は10日がかりで、ライン川を上って行きました。
 ジュラ山脈を右手に見ながら、スイスのレマン湖畔(ジュネーブ)まで。
 アルプス山脈は、シンプロン峠越えてイタリアのドモドッソラという田舎町に突入。 アペニン山脈を越えて、ジェノバの港町で野宿。
 ピサの斜塔が一応のゴール。
後はユトリで、カプリ島⇒ソレント⇒ナポリ間を走りました。
 総計2500Km。46歳(今から15年前)ですが、良い思い出となりました。

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ブリュッセル市内(出発)

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ローレライ近くのお城です。
 
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名前を忘れた田舎町(確かドイツの中流域でした)

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1500メートル位上った所。アルプス山脈が綺麗!

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シンプロン峠に着きました。この日は私の46歳の誕生日!(S23、6月16日生まれ)

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この「ピサの斜塔」を目指して毎日毎日走り続けました。真っ黒に日焼けしてるでしょう?
 観光に来ていたお嬢ちゃんが一緒に写ってくれました。

 この自転車冒険旅行のお話を、「旅行・地域」のカテゴリーにまとめたのでした。(ブログを始めたばかりで、その頃は写真を載せる方法を知りませんでした。遅ればせながら、順次紹介していきます。)

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2009年12月24日 (木)

オランダからの便り、真夜中のブリュッセル

『 前略、 昨日(5/30)ベルギーのブリュージュを立ち、国境を越えてオランダの西の端に入りました。日本人は珍しいらしくて、円のトラベラーズチェック交換にかなり手間取りましたが、無事オランダ通貨を入手。 北海に沿って走り続けています。昨夜は偶然にきれいなペンションに泊まることが出来、夕日も朝日も素晴らしいの一言です。朝食もボリュームたっぷりで満足。今日はこれからアムステルダムの近くまで走る予定。元気でやってます。 宏より 』
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成田出発がエンジントラブルで4時間近く遅れた。 ブリュッセル空港に着いたのが、夜の8時半。なんやかんやで市の中央駅の到着したのは9時を回っていた。 周囲の一目を気にしながら日本から持ち込んだ折りたたみ式自転車を組み立て荷物をまとめるのに、30分以上かかってしまった。

宏は内心ヒヤヒヤだった。 

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2009年12月 9日 (水)

イタリア ピサの斜塔(写真)

 暖かい夕暮れ の駅前広場。 宏はベンチに腰掛け、ナポリ行きの夜行列車をぼんやりと待っている。満足感はあった。充分な達成感に満たされていた。出発時間には まだ5時間以上あり、引き返して"ピサの斜塔"のそばで過ごすことも可能であった。
しかし、それはしなかった。
引き返さなくてもその情景は眼に焼き付いていて離れなかった。それほど強烈な印象を 白亜の寺院 から受けていた。
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 斜塔は
予想外に大きな建物であった。それが天に向かって斜めにそびえ立っている。それだけではなく建物は他に2つあり、それらが一体となってこれまでに見たことのない形の白く美しい寺院を形成している。

そこで2時間近く過ごしたのであるが、飽きなかった。写真も沢山撮ったが、キツネにつままれていたような気もする。
今行ってみたら「消えて無くなっていた」というようなことが起こりそうにも思えて、引き返さなかった。

 自転車はすでに折り畳んでバックに仕舞い込んでおり、リュックが一つ側にある。
付近にはベンチが幾つかあって、列車を待つ人々がイラつく様子もなく、過ぎゆく夕暮れを楽しんでいる。
 宏の横にも何人かの人が、入れ替わり立ち替わり座ってくる。
どちらからともなく話は始り、ピサの良さ、旅の良さ を語り合う。
自分の出身地の話をしていく。
 そして時間が来ると、"さよなら"をする。

 一人に戻るとまた思い出にふけったり、日記を取り出して何か書き留めたりしている。
『 意外に早く時間が経って行く。日本から持ち込んだタバコの残りが少ない。あと一箱あるだろうか?』 この3本が最後かもと思いつつ、ヨーロッパを汚すまいという信念で捨てないでケースに保持していた"吸いくさし"4本を取り出した。"しけモク"だ。
こんな事を書いている最中に「一本くれ。」と言う中年のおじさんが来た(多分乞食である)
身なりは悪くないので「やろうか」とも思ったが、なにせ残りわずかだ。
笑いながら、"吸いくさし"の並びを指差して『オーノウ( OH NO!)』のジェスチャー。
 タバコ吸いも困ったものである。
『 自転車を愛する人の多くは、タバコは良くないという信念を持っておられるようで、私のようなヘヴィースモーカーは少なかった。それでも段々と吸う本数が減り、一日10本程度までに減った。止めればいいのに、とうとう"ピサ"まで来た。まあここまで来れたのだから、タバコも「よし」としようか。』

 退屈はしていなかった。旅の満足感に浸っていた。 水は噴き上がってはいなかったが、大きな噴水が正面に見える。そのほとりで(彼女達も夜行列車を待っているのであろうか)、中学生20人位が、歌ったりしゃべったり、動物の鳴き声をまねてふざけ合ったりしている。
 その明るい笑い声は、ピサ駅前の雰囲気によく溶け込んでいた。

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2009年12月 8日 (火)

憧れの”ピサ”へ続く道

 ラスペチアには寄らなかった。 ホテルでもらった観光案内地図によると、宿泊地点の峠は、海岸からかなり離れている。
もう峠を上り下りするのはコリゴリであり、川沿いに真っ直ぐ"マッサ"の町を目指すことにした。
 マッサの町の その向こうが、夢にまで見た"ピサ"の町だ。まだ雨は残っていたが、早めに出発!
"吊り橋"があり、"古い橋"があり、
通行止めの橋の横に大きなセメント管を並べただけの"特設の橋"があり、
その上を通って、ズンズン進む。
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人家が増えて来た。
車の数も増えて来た。 大理石の石切り場があるのか、あちらこちらに大きな石を集積した"石置き場"が目に付く。 立派な"お城"も沿道近くの丘に、幾つかあった。 この辺りは観光コースから外れているらしく、ダンプカーの方が乗用車より多い。

 貧しい地域なのであろう、乗用車のなかでも、軽自動車が目立つ。 日本では見かけなくなった三輪車が何台も走っている。懐かしい気持ちにもなり、後ろを押してやりたい気持ちにもなる。

 マッサの町近くで、ミラノから続いている高速道路と並走するようになった。 この高速道路は、ここに来るまでに何度も見かけたものだ。宏の登っている峠道のはるか下方を、トンネルを連ねて走っていた。 今は恨めしくは思っていない。 苦しかった昨日の出来事も、既に思い出の1ページと変わっている。

 距離計を付けていないので正確には分からないが、2500キロは走って来た。朝から晩まで走り続けてきた。アムステルダムで都会は嫌いだと思って以来、毎日毎日、大自然の中を走って来た。人々の素朴な心に触れて来れた。今日の夕方にはピサの町に着く。 ガリレオと逢える。ガリレオが大小二つの鉄球を落として見せた建物と逢える。
『 期待は落胆を生み、偏見は不幸を生む 』とは分かっていても、"ピサの斜塔"を思うとき、ワクワクしてくる気持ちを抑えられなかった。
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宏は今、20代の青年そのものであった。
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急に車が増え道路も複雑になって来た。道路標識を見失って高速道路に入りかけ、あわてて引き返してきて地図を見ながらウロウロ、キョロキョロしている。
『 どうも良く分からない』。
街角で信号待ちの車の窓ガラス拭きのアルバイトをしている青年達が数人"たむろ"していた。
他に尋ねる相手も見当たらず、ちょっと雰囲気は怪しかったが聞いてみた。
「あんたが進もうとしていた道はグニャグニャと込み入っていて、遠回りだ。引き返してあっちの道を走れば23キロ位で、ピサまで行ける。」 盛んに説明してくれる。しかし、
「それは自動車専用道路の話ではないのか?自転車では通れないのではないか?」と、宏はグズグズしている。その青年達はなにか早口でしゃべり合っていたが、急にその一人が原付にまたがり、エンジンをかけた。
「案内する付いて来い」
 原付とはいっても、自動車には変わりない。
自転車で追っかけるには、かなりキツイものがある。
宏が遅れると、交差点の入り口など、要所要所で待っている。
やはり、さっき紛れ込んだ高速道路入口を、先導の原付は入って行く。

 時々後ろからクラクションを鳴らしながら車が追い越して行くが、
『 まあいいや 』と後を追っていく。
結局、1キロ近く複雑な道案内をしてくれて、走るべき道に無事たどり着けた。
有り難かった。『 人は見かけで判断してはいけないな。イタリア人も親切だ!』

 高速道路と並走する一般道であり、他の車は時速100キロ位でぶっ飛ばしている。
当然、向こうの高速道路では、もっともっと早いスピードで走っている。
宏もチェンジを最上段に上げ、走り続けることが出来た。
気持ちの良いラストスパートとなった。
 ピサまで あと少しだ!

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2009年12月 7日 (月)

ラスぺチアへの道は峠また峠

 ニースからジェノバ・ラスぺチアに続く 通称リビエラ海岸には、アペニン山脈が迫っており、切り立つ海岸が続いている。
野宿明けの宏は、荷物をまとめ(人の来ないうちに)、早々と出発した。
 海岸端を登っていく事が、初めのうちは、特には気にならなかった。
朝日が昇るに従い、海の色も黒から明るいエメラルド色に変わっていき、海岸に白い波となって打ち寄せている。
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 北海とも太平洋とも異なり、寝不足の宏にとっても、清々しい景色であった。
しかし、段々と足が重くなってくる。
朝早くから動き出したが、コーヒー一杯飲んではいない。

 初めて見るオリーブの艶やかな葉の輝きにも感動を覚えなくなるほど、お腹が空いて来た。
疲れていた。
日差しが暑い。
やっと見つけた喫茶の出来る店で、ショートケーキと小さなカップのコーヒーにありついたが、腹の足しにはならない。

 知らなかった。イタリアのコーヒーは量があんなに少ないことを知らなかった。
牛乳たっぷりのアメリカンコーヒーを、ガブ飲みしたかった。
坂を登ってまた下った。 すぐにまた登りである。
 [ ラスペチア 95 ] という道路標識らしき看板を目にする。
『 95キロ? 嘘だろう。』 と思ったが、どう考えてもそうとしか解釈できない。
宏の持つイタリア全土の地図を見ても、そんなに距離があるとは思えない。
訳が分からないまま、また坂を登り始める。 意識が"もうろう"としてきた。
 たまらなくなって坂道の少し広くなった場所で、仮眠を取った。

 パトカーらしきサイレン音で目が覚める。あわてて寝袋を丸める。
『 な~んだ。自転車レースの伴走だ。』( ツール・ド・フランス のレースではない様だが)派手なサイクルパンツをはいた何十人もの"お兄ちゃん"達が、目の前を走り過ぎて行った。

 今度の坂は、やけに長い。
『 どこまで続くのだろうか?』 思い出してみるに、朝の出発から何度か上ったり下ったりして来たが、その度に坂は長く・高くなって来ている。
 坂道はまだ続いており、海面は足元、かなり下の方に見える。おまけに道は海岸から離れ始めた。

 不覚であった。『 ジェノバから先は平坦な海岸沿いの道 』と、勝手に解釈していたのが大間違いであった。どうやら海に突き出した半島越えの道らしい( リアス式海岸?)。 ようやく向こうに海が見えてきて、宏は愕然となった。
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 道は二手、[ 海岸に下る道 ]と[ 山の上に登っていく道 ]とに分かれている。
足元はるか下方に海岸の村が見える。
その向こうには、もっともっと大きな半島が突き出していて、絶壁の海岸には 道らしきもの が有りそうにない。
 天気は良く、その気で登って来たのなら素晴らしく感動する景色も、今の宏には無駄であった。
 疲れがドーッと増してきた。

 気を取り直し、また坂を登り始める。
たまに追い越していく自動車が、恨めしく思えた。
何年か前の新聞で、ヨーロッパ自転車縦断の記録がジェノバで終わっていた理由が分かったような気がした。(詳細な地図で、この坂の事を事前に知っていたのであろうと思った)。

 宏は"日本手ぬぐい"を取り出し、鉢巻替わり とした。
流れ落ちる汗を止めるためである。
「自分で選んだ道ではないか」 と、声に出して励ました。自分を励ましながら登って行った。
 「自然よ、父よ、広大な父よ。
 僕から目を離さないで守ることをせよ。
 父の気迫を僕に満たせよ
。」 と、繰り返しつつ登って行った。

 この日宏は、3時頃にとうとうダウンし、峠のホテルに転がり込んで、そのまま倒れ込むように 3時間眠った。
夕方、勧められるままに、ピザを食べ、スパゲティーを追加注文して食べた。
外は雨に変わっていた。
シャワーは水しか出ず、エレベータ横の小さな安部屋で、また眠った。
 泊り客はほとんどなく、ガランとしていて、エレベータの動く音は1,2回聞いただけであった。
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2009年12月 6日 (日)

港町ジェノバで危険な野宿

アペニン山脈を越えた。峠には一方通行の小さくて古いトンネルが掘られており、信号待ちして進んだ。暗い暗い一方通行の小さなトンネルだった。
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  この峠を下るとジェノバ。地中海だ。今夜はそこに泊まろう。』
 
宏は汗をかいた服を着替え、ズボンをはいて"正装"し、峠のレストランで一人、ワインで静かな乾杯をした。
これが最後の峠であり、あとは海岸沿いの平坦な道が続くだけ。』 と思っての乾杯だった。
実はこの後、大変な事態が待ち受けているのだが、宏は知る由もない。
 安心し切っての"ワイン"だった。

 峠を下る途中で小さなペンションを見つけ、立ち寄ってみた。
英語が分かるマスターが応対してくれた。
ここで宏は欲を出し、宿賃の値切り交渉を始めたのだが折り合わず、"さよなら"することになってしまった。

 それからである。探せども探せども、空いた部屋が見つからない。
峠の下り坂も終わり、ジェノバの街中に入っても、どこもかしこも塞がっていた。
そのはずである。 その日は土曜日の夕方であった。
イタリア第一の港街であるジェノバは、アベックで満ち溢れており、彼らがホテルというホテルを占領していたのだった。
 日はとっぷりと暮れ、生暖かい風が肌をかすめる。

 その手の女性が数十名、20メートル間隔で客を待っている地帯を通り過ぎた。
『 彼女たちは客と寝る場所を、きっと確保しているのだろうな。』という想像は出来た。
しかし、『 恐い 』とも思ったし、『 妻に申し訳ない 』とも思った。
そう思いながら、ペダルを踏む力を強めた。
 街角に立つ警察官にも尋ねてはみたが、らちがあかない。

 既に11時を回っている。遂に宏は意を決した。野宿である
 ベンチで一夜をあかすしかない 
「イタリアは危険」という忠告が何度も脳裏によみがえる。まずは腹ごしらえにハンバーグを買って食べた。
 ジェノバの港の西の外れに街灯に明るく照らされた広い煉瓦通りがあった。
アベックが多い通りで、人目をはばからず、岸壁のあちらこちらで濃厚なキスシーンを演じている。
 『 ここが一番安全!』と判断し、ベンチに座って夜の更けるのを宏はじっと待った。

 一度たばこをせがむ"やから"が声をかけて来たが、毅然として追っ払う。
『 アベックは怖くない。子供連れも怖くない。酒に酔った男数人がかたまって近付いて来ると、流石に緊張感が高まる。』 ただ、顔にはその"緊張"が表れないようにして、平静を装う。
 真夜中の1時を過ぎると、さすがの港街も ぶらつく人は少なくなる。
おもむろに寝袋を取り出し、自転車と荷物を目立たないように置き直して眠った。
役には立たないとは思ったが、荷物・自転車・自分の腕 をワイヤーロープで結んで寝た。
『 襲われたら、襲われた時のこと。』 ことここに至っては仕方がない。
 とにかく疲れて寝入った。

 3時間ちょっとの間があっという間に過ぎた。空はわずかに白みかけている。
荷物も自転車も無事であった。おもむろに寝袋を這い出し、岸壁で海風に当たった。
無事であったことにホッとし、タバコを深々と吸った。
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2009年12月 5日 (土)

イタリアの小さなお城にて

 ポー川 の上流域を縦断し、宏は一路、地中海を目指している。 日本と見分けのつかない野山が続く。稲穂の畑まである。 たまに教会や"お城"に出くわさない限り、「ここは日本だ」と言われても だまされそうなほど良く似た風景が続いている。
「イタリアは危険な国だ。スリ、泥棒に気をつけろ!」 と、さんざん日本で聞かされて来たが、あれは出鱈目(でたらめ)であった。
『"スリ"や"かっぱらい"は、都市部だけでの話なのだろう。』
 昨夜の宿探しでも、食べ物を求めて入った簡易レストランでも、会う人々はみんな素朴で親切であった。
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 今朝がた、野原のただ中に出現した"小さなお城"の写真を撮ろうと自転車を止めた時、ニコニコと近寄って来たおじさん達がいた。
「そっちの方向はアレサンドリアではないよ」
「ありがとう。今あの城の写真を撮りたいんだ。綺麗なお城だね。」

 しばらくイタリア語のレッスンが続いた後、「 付いて来なさい。」 と、手招きしながら、一人が先に立って歩き出した。お城の方角だ。
 門の所でペンキを塗っている人がいる。 「この城は近いうちに博物館になるんだ。」 と、何となく言っていることが分かる。

「入ってもいいのか?」
「私は入れるんだ。あんたも入っていいよ。」と中庭に導いてくれた。
 内部は小さいながら綺麗な庭である。都会のへたな公園よりマシであった。 紫陽花(あじさい)が咲いている。

その紫陽花を見た途端に、自分が住んでいる相模原市のことを思い出した。
毎年6月には、この市の道路と言う道路は紫陽花が咲き乱れ、それは見事なものだ。
 4月には桜が満開になり、街全体が薄いピンク色に包まれる。

 「 これは井戸の跡だ。」と、今では花でおおわれている"四角い台"の解説を、パントマイム付きでやってくれる。 宏はまた異邦人に戻る。

 その城の近くには朝市が立っていた。
そのオジサンは、どんどん宏の腕を引っ張って市場の方に歩いて行く。
「これはおいしいよ」と、切り割った果物の匂いをかぐ仕草をしてみせる。
その仕草で"メロン"だと分かる。値段交渉までしてくれる。
 他にもサンダルなど日用品を買い込み、そのオジサンとは別れた。

そのメロンは確かに美味しかった。
『 あの市場付近で、あのオジサンと一緒に食べればよかったな。』 と、後で思った。
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Photo_11 「メロンが美味しいよ」と、パントマイムしてくれたのは、左のおじさん。絵筆を持っているのは改装中の方。

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2009年12月 4日 (金)

イタリアへ"ボナセーラ( こんばんわ )"

このあと宏はシンプロン峠を駆け下り、一気にイタリアの"ドモドッソラ"という田舎町に入った。
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 そこで困ったことが起こる。言葉が全く通じないのだ。
飛行機や電車の旅では有名な都市に降り立つことになり、大抵の場合英語が通じる。
しかし自転車での国境越え、ましてやスイスの山の中からイタリアの片田舎へと国境を越えたのだ。通じる訳がない。

 悪いことに国境で、イタリア通貨購入を忘れていた。 幸い、日本製のバイクに乗ったドイツの青年グループが通訳してくれて、宿代はスイスフランで払うことに交渉がまとまった。夕食代も「ツケ払い」である。
 何とも味気ない食事となった。

なにくそ!と、宏は思った。遠の昔に、六か国語の会話集は無くなっている。
「地球の歩き方」のわずかな単語のページを破り取って手に持ち、付き合ってくれそうな人を探して回る。
 夕暮れ時で、陽はまだ屋根の上にある。
泊まることになった"宿&レストラン"の前には、いくつかの椅子とテーブルがあり、数人のおじさん・おじいさん達がワインを楽しんでいた。 宏は「座ってもいいか」と身振りで示す。
何も言わないのも変なので、通じないとは思ったがドイツ語で「ここに座ってもいいか?」と言いながら椅子を指差した。
 首を縦に振ってくれる。

ボンジョールノ(こんにちは)」と、イタリア語に添えてあったカタカナを発声してみる。
直ぐに反応があった。首を横に振りながら"天"を指差して、
「違う。もう夕方だ(とでもいっているのだろう)、ボナセーラ」

 うんうんと頷きながら宏は、
ボナセーラ(こんばんわ)」と繰り返し、すぐにカタカナで書きとめる。
ワインを指しながら、「ワイン?」と語尾をあげると、
「ノン。ヴィーノ」
「ビーノ?」
「ノン、ノン。ヴィーノ」
「ビール?」
「(それは泡の立つやつだ)。ヴィーノ」 と、唇を前に突き出して発音してくれる。
「ヴィーノ」
「スイ(そうだ。YES)」
「(泡の立つのは)ビール?」
「ノン。ビーレレレ」 と、 "R"と"L"の発音矯正をしてくれる。

 どこから来たのかの質問は身振りで予想が付く。
国の名前や都市名は、ほぼ万国共通だ。
「ジャパン・ヤーパン・ニホン・ニッポン・・」と喋っていれば通じてくる。
「ベルギー・ベルガム、⇒オランダ・ホランダ、⇒ドイツ・ドイッチェランド、⇒スイス・スイッチェランド・・」
 「アルプス(を越えて)」も通じた。
「シンプロン峠を自転車で」 と、両手を胸元で回転させて見せる。
「(それはイタリアでは)ビチグレッタ」
誕生日は難しいのでパスポートを示すと、「コンプレアーノ」
 肌の黒いところと白いところを交互に指すと、「ネロ、ビヤンコ」

 おじさん達も面白がって、次々と単語を教授してくれる。
こんな調子で夜更けまで、46歳の誕生日を祝ってもらう事が出来た。
レストランも閉店間際になってきたのであろう、ウエイトレスの姉さんやコックさんまで出て来て、宏を囲む人だかりは十数人に膨れ上がっていた。

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2009年12月 3日 (木)

競り上がってくる雪山、白衣のシンプロン峠

 明けて 6月16日は、宏の誕生日。 別に もくろんだ訳ではなかったが、誕生日のその日にアルプスの峠越えを敢行する事となった。
朝は早めに出発しブリッグの町中には すぐに着いた。
『 まずは食糧調達!(峠までの40キロ区間では入手が難しそうだ)。この町しかない。』
小さなスーパーマーケットが見つかった。
トマト・バナナ・チョコレート・パンやハムなど買い込みをしたところに、「青年」が近付いて来た。 にこにこ笑いながら何やらフランスなまりの英語でしゃべりかけて来る。( 2,3度、繰り返してしゃべってくれた)。
「君と僕とは昨日、数回逢っている。」と言ってる。
そう言われれば昨日、追い越したり追い越されたりしたボンジュール青年がいた。彼曰く、「その後、何回もすれ違った。あの滝の所で、君は写真を撮っている最中だった。」
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 急に親しみが湧いてきた。

 その青年はリヨンを3日前に発ってレマン湖畔を経由し、その後宏と同じルートで走って来ていた。今日、明日かけてオーストリアに入る計画とのこと。
宏はこれからアルプスを越え、イタリアに向かう。 ここでお別れだ。
Photo  赤い車のボンネットの上にカメラをセットし、二人で記念写真を撮った。

ボンジュール青年と別れた後も、宏はまだ何かを探している。「水」である。  何処かに泉があるはず。』 それを探している。 そんな彼に、中年の男性が声をかけて来る。
「何かお探しですか?」
「水を手に入れたい。」と、空の容器を示す。
「そこの薬屋で手に入る。」と言う。
 宏は水を買うつもりはなかったが、連れて行かれた。
その男性は店員とベラベラしゃべってから、空っぽの容器を宏から受け取って、店員に手渡す。
店員は奥に入って行き「水」を詰めて戻ってきた。 有難い。無料!
 店員も中年男性も、これからアルプス越えに挑戦する日本人宏を、激励してくれた。
『 なあに40キロ先の高さ2千メートル。自転車を押してでも登ってやろう。』
宏はそう思っている。
 思っている通りに、押して登る展開になっていく。 46歳の山登り。

シンプロン峠へ

『 峠への道はツタの如く、切り立つ山にからみ付く。
  ガードレールのすぐそばは、恐怖心が先に立つ。
   遠くの雪山を見て走る。 刻々と姿を変えていく山波。
    風が吹き降りてくる。 恐い。道の中央寄りを走る。
     雪山連峰が段々と、小さな町を取り囲んでいく。』

心臓破りの坂が続いている。はるか向こうの山腹にまで、道路らしき白い構造物が認められる。急斜面であり、今にもズリ落ちそうなほど危なっかしい。 『 あんな所まで登っていくのか。』と、宏は少々不安になる。

振り返るとブリッグの町が眼下に広がり、町を囲むように山々が競い上がってきている。 路面を見つめながらペダルを踏み続けていても、ガードレールの向こう側の景色は目に入る。 針葉樹林を上から眺める景色、それが自転車とともに前方に滑って行く。 この異様な動きで、宏は一種の催眠状態を覚えた。

『 恐い 』と思うと、余計に足が縮こまってくる。 遠くの雪山を見て走ることにした。 強くはないが風が麓へ向かって吹いており、風の呼吸は、ガードレールのその向こうに自転車が吸い込まれそうな錯覚を、助長する。 宏は道路の中央を走ることにした。
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大きな山を回り込むと、昨日の三角帽子の雪山が現れた。 随分と大きく、圧倒されそうだ。 その山に向って道はス~ッと延びている。 周りの山間(やまあい)から、いく筋かの川が流れ出し、一本の「 小川 」となって、足元はるか下方を流れ下る。

相変わらず道は切り立つ斜面上にあり、眼下は一面の緑、上の方には雪山が広がっている。南斜面を走行中であり、太陽は真夏の暖かな日差しを送っている。 所々山を削って出来た小さな休憩場所には人影もなく、路端には野の草花が風に揺られている。

谷に架かる大きな橋の上までやって来た。 三角帽子の山は頭上にそびえている。吹き下ろす風は かなり強い。 近付いてみるとコンクリート製の頑丈な橋ではあったが、なにせ高い! 遠目には、その橋の支柱が乾素麺(そうめん)の如くに見えていた。

欄干から谷底を覗いてみる。 深い! マッチの先ほどの山小屋が川のほとりに見える。 雪解け水が爽やかに流れていた。

牛が数頭のどかに草を食んでいる。 三角帽子山の近くで、道は大きくUターンする。宏は少し早いが昼食を取ることとした。 荷物を軽くする意味もあって、バナナも桃も食べ尽くした。 1,2匹、蠅が飛び回っている。 ジュースを飲み、うまそうに宏は煙草をくゆらす。 車はほとんど走っていない。はるか下方に、もう使われていないらしい旧道が細く長く続いている。

トンネルの向こうから轟音が響いてくる。トラックだった。 また静寂に戻る。 相変わらず自転車を押して登っている。 トンネルといっても山肌に造られたコンクリート製の雪崩を防ぐ長い建造物で、谷側に窓が開いている。その窓から雪山が楽しめる。長~く連なるトンネルが、その窓を通して"白蛇"の如くに見える。

少し走る。が、ものの百メートル進まない内に、また自転車を降りて押している。空気も薄いのであろう、息切れして長続きしない。 『 なあに、今日中に着けばいい。』と、マイペースで押して歩く。風は冷たい。 『 あの山向こうが峠かな?』 それにしても長いトンネルだ。 残雪ラインにそろそろ達したようで、辺りは白く明るくなった。
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雪解け水が、トンネルの屋根を越えて流れ落ちている。 その場所でまた休憩を取る。 手足を洗う。顔を洗う。冷たい! 宏は容器に水を詰め替えようとした。 その小さな滝が小石を洗っている。玄武岩、磁鉄鉱、水晶のかけらなどが、流れる水と一緒になって太陽光をキラキラと照り返す。

峠まであと少し、あと少し。また自転車を押しながら進む。

遂に到着、シンプロン峠!

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感激の一瞬だ。 道路わきの広場に車が数台停まっており、峠の茶屋もあるが、人影はほとんどない。 2005メートルの標識看板を発見し、たまたま居合わせた人に記念写真を撮ってもらった。

両側にそそり立つ岩山は低い灌木と、苔(こけ)とも見える緑をまとい、その上を雪が覆う。 岩肌・土・緑 が絶妙の色バランスを保ちながら、雪の白さを強調している。

このダイナミックな景色の中にも自然の優しさは感じ取れた。 麓を出発してからここまでの半日、宏は人とほとんどしゃべらなかった。話すチャンスも無かったし、その必要もなかった。 大自然の中で、ずっとその変化を楽しんで来れた。

 太陽は光り輝き、峠は最高のドレスをまとって迎えてくれた様に、宏は感じた。 静かな達成感であった。

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2009年12月 2日 (水)

アルプス(ローザンヌ~ジュネーブ~シオン)

スイスの田舎ホテルにて
 『 6月13日(月) 今日は充実した日であった。朝方、曇ってはいたが直後に晴れわたり、ジュラ山脈 が綺麗であった。ビーラー湖、ヌーシャテル湖 とも 好天のせいもあって素晴らしい。暖かな一日であり、ここに来て初めて足から塩が吹いた(白くなった)。なめて確かめてみる。確かに塩っ辛い!』
 『 レマン湖畔にある(ローザンヌ直前の)小高い丘にあった田舎ホテル(40フラン)に宿泊。 フランス語が常用らしくドイツ語・英語共に通じないが、朝食付きであることは理解できた。 ここで初めてバスタブを使用。日本人の私は、シャワーよりもバスタブの方が好きだ。満足、満足!
 『 欲を言えばキリはないが、バスタブは身体を温めるだけにし、外のスノコ板(欧州には無い)の上で、ゆっくり洗いたいところだ( しかし、これは望む方が無理)。安い宿はシャワーやトイレさえ共同使用が一般的。
 『 一階はパブ兼レストランとなっていて、スイス軍隊服を着たお兄ちゃん3人を捕まえて、一緒にビールを飲んだ。 彼らはドイツ語・フランス語・ロマンシュ語・イタリア語の四か国語を話すとのこと。それを英語でしゃべっているのだから、五か国語に通じていることになる。
「 スイスは山国ではあるが、意外に平坦だ。マッターホルンとかモンブランなどの山々があまりに有名で、日本人は皆、スイスは山ばかりだと思っている。しかし、走ってみて、平らな場所が少なくないということが、この2日間でよく分かった。日本の方がはるかに山が多く、平野が少ない。」 こんな事をビールを飲みながら、しゃべった。』
Photo_5 一路ジュネーブへ
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(6月14日)、小高い丘にあった田舎ホテルを出たあと、ジュネーブまで風まかせに走った。 いきなりガット(GATT)の看板と建物を路上で目にした時には、中学校の教科書世界に飛び込んだような感慨を受けた。とにかく綺麗な美しい都市であった。

ローザンヌへの帰り道は電車としたが、駅員に自転車を取り上げられて当惑した。(本当にローザンヌで自転車を受け取れるかどうか不安でたまらなかった)。 結果的には自転車は返されたが、こういうトラブル時に、現地語(ジュネーブはフランス語)がうまく喋れないと不安はつのるものだ。
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車窓からレマン湖を眺めている内に急に薄雲が晴れわたり、湖の向こうにモンブランもあるであろうアルプス山脈がくっきりと現われて来た。凄いスピードで林や民家が間を遮るので、シャッターを切ることも出来ずに、ただ眺めている。「こんなことなら、帰りも自転車にすべきだった」と、欲張りの後悔をした。
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アルプスの山々   

6月15日 6:57  レマン湖畔のユースにて朝食を待っている。素晴らしい朝だ。アルプスが光り輝いている。早く出発したい!

9:51  「あれがモンブランか?」と、雪山が現れる度に聞いた。「モンブランはその後ろに隠れている。あれは3257mの小さな山だ。もう少し南に下れば見えるだろう」 少し前進する。 向こうの方に、もっと高い雪山が見えて来た。
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10:19  山間から大砲を撃ったような轟音が響いて来た。雪崩でも起こったのだろうと、勝手に想像する。 何度も聞こえてくる。 鉄砲の音がこだましているだけかも知れない。 玉のような汗が流れる。 さっき追い越した兄さんが、今度は私を追い越して行った。「ボンジュール」

15:12  シオンの町にやって来た。 立ち昇るのは雲のみではない。4機も、6機も、ジェット戦闘機が飛び出していく。 空を舞う。 丘の向こうにスイス空軍基地があるらしい。

16:34  ちょっと暑いけど絶好のサイクリング日和りである。空は青く澄み渡り、雲が雪山をかすめて行く。 追い風だ。 もう少しでシリオンの町だ。

17:38  360度全天パノラマだ。カメラに収まらない!

遥か彼方に三角帽子の形をした雪山が見えて来た。道路行く手、真っすぐ向こうだ。 『多分あの辺りの麓(ふもと)がブリッグの町であろう。』、と想像した。 その町が今日の目的地であり、明日のアルプス越えの出発点となる。 宏は走りに走った。 幸いにも追い風! 道はわずかに登り坂ではあるが、負担にはならない。 その三角帽子の雪山は、少しずつ、少しづつではあるが、大きくなって来る。

道路の両脇には背の高い並木がならび、リズミカルに自転車のそばを過ぎて行く。 その並木の間から、夕日を浴びた山々が刻々と色と形を変えていく。 昼間あった雲はほとんど消え、雪山は光り輝いている。 さらに自転車は進む。
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野中の一本道のそばに小さな水路が並行して走っている。 その水路の橋の上で、宏は小休止を取った。 三角帽子の雪山は、水路の向こうにどっかと陣取っている。 その山は「目」を持っていた。「一つ目のおばけ」、とも想像したが、妙に愛嬌がある。「白マントの人」のようにも見える。 車はほとんど走らない。静かだ。夕日だけがギラギラと後方から照りつけている。

更に走った。 わずかに道は左に曲がり、三角帽子の雪山が見えなくなった。 右手より小川が流れ来ている。 小川に沿って登山電車の線路が谷間を登っている。幅の狭い小川だが流れは早く、石を積み上げた土手も高い。雪解け水がまだ流れているのだろうか、川底の小石が一つ一つ見えるほどに透明度が高い。 宏は路辺の素朴な水飲み場で、頭から水をかぶった。

風はひんやりとして、短パンの足に心地よい。 もうブリッグの町は近いのだろう。『 この山向こうがシンプロン峠への道かもしれない。そろそろ宿探しをはじめなければ・・。』  この山の中での野宿は(宏の持つ薄い寝袋では)凍え死ぬ危険性がある。 ブリッグまで、あと10キロは有りそうだった。 『その間にペンションでもあれば泊まろう。』と思いつつ、勢い良くペダルを踏み出していった。

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2009年12月 1日 (火)

教えてあげない。ボンソワール。グラッチェ

 ヨーロッパの人々は皆陽気だ。 この旅を始めて間もないある朝、宏は例の如く道に迷いつつも「 多分こっちの方向!」と、田舎町の明るい住宅街を走っていた。
簡単な木の柵が庭と道路とを隔てている。
前方にかなり年配のおばさん二人が、井戸端会議を行っている。
その笑い声は遠くからも聞こえた。
宏は近づくと、何時もの様に気軽に挨拶(あいさつ)しながら、自転車を止めた。
 声のした方向に振り向きながらも彼女達は まだ、ほがらかに笑っている。

「道に迷ってしまった。ここはどの辺り?」と、地図を示しつつ聞く。
こういう場合、地図を真面目には見てくれないので、「ここぞ」と思う地名をローマ字読みしながら、「あっちの方向か?」と指差してみる。
 この辺りから宏も、井戸端会議に加えてもらえることになる。 

 珍しい日本人。面白い話題の提供は、道を尋ねる者の義務と宏は信じている。
一人は英語が少し、もう一人は現地語とドイツ語が話せた様だった。
30分余り カタコト会話 を楽しんだ後、「このボタンを私のために押してくれませんか?」と、カメラを渡した。

 素早く(ちゃっかりと)、もう一方のおばさんの側に立つ。
シャッターは押され、返してもらったカメラをケースに収めようとしたその時、おばさんがすまし顔で「 私ら二人を写してくれ 」と言っている。
『 フィルムがもったいない。』と内心では思ったが顔には出さず、『 国際サービス 』と割り切ってご要望にお応えする。

 直後に写してくれと言ったおばさんが「ゴニョゴニョ」と現地語で何かしゃべった。
目が少しいたずらっぽく笑っており、その目をそらす様にしてしゃべった。
気になってもう一人に「何てしゃべったのか?」と、聞くが、「教えてあげない」と、二人で笑っている。
 そう言われるとますます気になって、執拗に聞き返す。 ついに英語に訳してくれた。
「日本に帰ってから写真の下に、『 親切な二人のおばさんに会った。』と書いておきなさい」と、言ったんだそうだ。
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 旅も終り頃 になるといちいち自転車を止めて道を尋ねるのも、面倒になってくる。
老眼の始まっている宏は、自転車のスピードを緩めないまま、片手で近眼用のメガネを外し、移動しながら地図に目を近づけて、地名をチェックする要領を覚えた。

行く先の地名をチェックしておいてから通りがかりの人に、
「メッサの町はこのずーっと向こう?」と、指さしながら大声で聞く。
 聞かれた方も心得たもので、
「スイ、スイ、スイ(そうだ。そうだ)。あと、30キロメートル。」と、答えてくれる。
「グラッチェ(ありがとう)」という短い会話が成立する。

陽気なイタリア人との出会いの一コマである。 東京ではこんな会話は到底無理であろう。

 スイスのある丘の小道、夕暮れのことである。
向こうから中学生らしい娘さん3人が、自転車で近づいて来る。( 宏は夕日を浴びながらペダルを踏んでいる。) 今夜の宿のことが気になって、3人娘が目には入っていても気が付いてはいない。
突然歌うように、「ボンソワール。ボンソワール。ボンソワール。」と、声を掛けられた。
あわてて、「ボンソワール(こんばんわ)」と応え返す。
 牧歌調の景色の中で、『 この辺りはフランス語圏なんだな。』と気づく。
  娘さん達の姿はもう丘の向こうに消えかかっていた。

この後宏は、運よく田舎の安ホテルを見つけている。
 3人の天使に逢ったような、爽やかなイメージが脳裏に残った。

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