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2015年3月20日 (金)

マ⑩、離婚と再婚問答。一休和尚のとんち問答。PK(念力)。超が付く傑作品(講話)。

 マルコによる福音書 【第10章】 を勉強中です。
【 それからイエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた。 そのとき、パリサイ人達が
近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、
「夫はその妻を出しても差し支えないでしょうか」。 イエスは答えて言われた、「モーセは貴方がたになんと命じたか」。
 彼らは言った「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。 そこでイエスは言われた、・・・

「モーセは貴方がたの心が、かたくななので貴方がたの為に、この定めを書いたのである。 しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。それゆえに、人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らは最早、ふたりではなく一体である。だから、神があわせられたものを、人は離してはならない」。】
… 最後の文章は、何処かで聞いたことありませんか?
 私の記憶では、キリスト教会で、
結婚式で必ず引用される文章のような気がします。
【 家に入ってから、弟子達はまたこの事について尋ねた。そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。】
… 他の福音書で、ここの部分がどのように表現されているのかは知りません(調べてません)が、『浮気は良くないよ』と言っておられるだけですね。 
マルコは、『この程度のことしか、イエスは言ってませんよ』と、主張しているように、響くのですが、変ですか?
【 イエスに触って頂くために、人々が幼な子らをみもとに連れて来た。ところが、弟子達は彼らをたしなめた。それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らを私の所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。 よく聞いておくがよい。 誰でも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこに入ることは決して出来ない」。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。】
… これも、実に微笑ましいイエス様らしいの言動ですね。
【 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、(みまえ)にひざまずいて尋ねた、「良き師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
イエスは言われた「なぜ私を良き者と言うのか。神ひとりのほかに良い者はいない。 いましめはあなたの知っている通りである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母を敬え』」。
すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。】
… これが不遜にイエスには聞こえたのでしょうね。言われなくてもいいことを、イエスから聞かされてしまいました。
【 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「貴方に足りないことが一つある。 帰って持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、私に従ってきなさい」。
すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。 たくさんの資産を持っていたからである。】
… 『それ見たか』という言葉を受け取ってしまいました。イエス様も ひとがわるい ですね。 更に次の言葉も、イエス様らしくありません。 まあ、真理は真理ですけど。
【 それから、イエスは見まわして、弟子達に言われた、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことであろう」。】
【 弟子達はこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんと難しいことであろう。富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっと易しい」。 すると彼らはますます驚いて、互いに言った、「それでは、誰が救われることができるのだろう」。】
… そりゃあ、弟子達が驚く(誤解する)のも、無理ありません。イエスを多少弁護してあげましょう。 イエス様は、『非常に難しい事ではあるが、らくだが針の穴を通る事は出来るんだ』と、ご存知なのです(そういう認識があった上で)、「富んでいる者が神の国に入ることは難しいものだね」と、仰っただけの事です。 
20世紀に入ってアインシュタインが一般相対性原理を発表して以降、「らくだが針の穴を通る事は出来る」ということが理解できるようになりました。 いつか別の機会に、この説明をしてあげたいなと、思ってます。
 弟子達に伝わらなかったので、イエスもちょっと困って、居直ったみたいな、発言をなさいましたようで、以下 …。
【 イエスは彼らを見つめて言われた、「人には出来ないが、神には出来る。神は何でも出来るからである」。】
… 「ハイハイ」と弟子達も、応じておけば良いものを、ペレロが出しゃばって、
【ペテロがイエスに言い出した、「ご覧なさい、私達は一切を捨てて、あなたに従って参りました」。
 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。誰でも私のために、また福音の為に、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。】
… イエスも、真理を語ってはおられるのですが、これ言っちゃうから、以降2000年間、真面目な人達が何十万人も、何百万人も、殉教していく歴史が出来ちゃったのですよ。
屁理屈ですが、誰も彼も結婚しないで、宣教活動にだけ従事する人が増え過ぎたら、子供が激減する結果になるのは明白でしょ。 アメリカの原住民が、メイフラワー号の乗組員を我々の土地を侵略する者達だ」として、皆殺しにしていれば、現在のアメリカ合衆国はあり得なかったのも、明白な事実ですからね。ですから、このお話は、愛弟子達とイエスとの間だけで交わされた、一種 言葉の遊び みたいなエピソードだったのでしょう。
 ただし、イエスと同じように発想して、家、兄弟、姉妹、母、子、および国家さえも、捨てて神の道に入った人が2500年前にいるのです。 言わずとしれた、ブッダ(お釈迦様)です。
この出家という問題で比べるなら、イエスとブッダは同格だ、という話になります。
【さて、一行はエルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。 すると、イエスは12弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。「さあ、これから、私たちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、ツバキを掛け、鞭打ちついに殺します。しかし、人の子は3日の後に、よみがえります。」
 
・・・ 如何にも、取って付けたような、説明文です。後からの追記挿入文の匂いがプンプンと漂ってきます。
【 さて、ゼベダイの子ヤコブヨハネとがイエスのもとに来て言った、「先生、私達がお頼みすることは、何でもかなえて下さるようにお願いします」。イエスは彼らに「何をして欲しいと、願うのか」と言われた。
すると彼らは言った「栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、ひとりを左にすわるようにしてください」。 イエスは言われた、「貴方がたは自分が何を求めているのか、分かっていない。貴方がたは、私が飲む杯を飲み、私が受けるバプテスマを受けることができるか」。 彼らは「できます」と答えた。
するとイエスは言われた、「貴方がたは、私が飲む杯を飲み、私が受けるバプテスマを受けるであろう。
 しかし、私の右、左にすわらせることは、私のすることではなく、ただ備えられている人々だけに許されることである」。 10人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネとのことで、憤慨し出した。】
… 物凄く、低俗な〔ヤコブ&ヨハネ〕のお願いに対して、丁寧に対応し、丁寧な回答をなさっています。他の10人が憤慨したのも、極当然であったと思われます。
【 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「貴方がたの知っている通り、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人達はその民の上に権力をふるっている。
 しかし、貴方がたの間では、そうであってはならない。かえって、貴方がたの間で〔かしら〕になりたいと思う者はすべての人の僕(しもべ)とならなければならない。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また、
多くの人の贖い(あがない)として、自分の命を与える為である」。】
… 初めて、〔あがない〕という言葉が、出て来ました。最終末尾のこの一文を持って、罪のあがないはイエスキリストの十字架しか有り得ない、という極端な思想が定着したように、思えて来ました。 多くの人というのを、中近東に住んでいる多くの人々(民族)と考えるなら、まだ、拡大解釈は可能かも知れませんが、仏教圏、あるいは、アメリカ原住民やオーストラリアの原住民に対してまで、勝手に拡大解釈して、勝手な神学を押し付けつけて来たのには、天にいますイエス様も、苦笑しておられるのではないでしょうか。〔最後の(あがない)の文章は、後で誰かが追加したのかな?〕
話が横道にそれましたが、この辺りの弟子達とのやり取りを見ていると、イエスの温かみや人間臭さを感じるのは私だけではないのではありませんか。
【 それから、彼らはエリコに来た。そして、イエスが弟子達や大勢の群集と共にエリコから出掛けられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人の乞食が、道端にすわっていた。
ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ私を憐れんでください」と叫び出した。
 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼は増々、激しく叫び続けた、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」。
イエスは立ち止まって「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った「喜べ、立て、お前を呼んでおられる」。 そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。イエスは彼に向かって言われた、「私に何をして欲しいのか」。
その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。そこでイエスは言われた「行け、貴方の信仰が貴方を救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。】
… それ見てご覧なさい、マルコが実体験に基づいて書いたと思われる文章と内容に、戻っているではありませんか。〔最後の(あがない)の文章は、後で誰かが追加したらしい。〕
 マルコによる福音書 第11章~
【さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子を遣わして言われた、「向こうの村へ行きなさい。そこに入るとすぐ、まだ誰も乗ったことののないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いて来なさい。もし、誰かがあなた方に、なぜ、そんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返して下さいますと、言いなさい」。
 そこで、彼らは出かけて行き、そして表通りの戸口に、ろばの子がつないであるのを見たので、それを解いた。
すると、そこに立っていた人々が言った、「そのろばの子を解いて、どうするのか」。 弟子達は、イエスが言われたとおり彼らに話したので、許してくれた。そこで弟子達は、そのろばの子をイエスのところに引いて来て、自分達の上着をそれに投げかけると、イエスは、その上にお乗りになった。
 すると多くの人々は自分達の上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫び続けた。
「ホサナ、主の御名によって来る者に、祝福あれ。
 今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。
 いと高き所に、ホサナ。」
こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、全てのものを見まわったのち、もはや時も遅くなっていたので、12弟子と共にベタニヤに出て行かれた。】
… イエスは旧約聖書を良く読んでおられたと同時に、予知、予見能力(透視超能力)にも優れた方でした。但し、この程度の透視の能力を持った人物は、現代世界に於いても、かなりの人数がおいでのようです。 占師の多くは、この能力を習得
しておられます。 本人達にお聞きすると、その能力は、物心ついた時から、自分の内にあったのだと、言われます。
【 翌日、彼らがベタニヤから出かけて来たとき、イエスは空腹をおぼえられた。そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからご覧になって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは、何も見当たらなかった。〔いちじく〕の季節でなかったからである。 そこで、イエスはその木に向かって、
「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子達はこれを聞いていた。】
… 次の日には、こののろいをかけられたイチジクの木は、(無残にも)枯れてしまうのですが、それは後で出てきます。
【 それから、彼らはエルサレムに来た。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台やはとを売る者の腰掛をくつがえし、また、器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、全ての国民の祈りの家と称えられるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、貴方がたはそれを強盗の巣にしてしまった」。
祭司長、律法学者達はこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群集がみなその教えに感動していたので、イエスを恐れていたからである。
 夕方になると、イエスと弟子達とは、いつものように都の外に出て行った。
 朝早く道を通っていると、彼らは先の〔いちじく〕が、根元から枯れているのを見た。そこで、ペテロは思い出して、イエスに言った、「先生、ご覧なさい。あなたがのろわれたいちじくが枯れています」。 イエスは答えて言われた、
「神を信じなさい。よく聞いておくがよい。誰でもこの山に、動き出して、海の中に入れと言い、その言った事は必ず成ると、心に疑わない信じるなら、そのとおりに成るであろう。 そこで、貴方がたに言うが、なんでも祈り求めることは、既にかなえられたと信じなさい。そうすれば、その通りになるであろう。 また立って祈るとき、誰かに対して、何か恨み事があるならば、許してやりなさい。 そうすれば、天にいます貴方がたの父も、貴方がたの過ちを、許して下さるであろう。〔もし許さないならば天にいます貴方がたの父も、貴方がたの過ちを、許してくださらないであろう〕」。】
… また私事になりますが、私が心の中で、ふと『あいつなんかいなくなればいい。邪魔だなあ』と思うと、数ヶ月か数年か先に、突然その人が死亡してしまう という経験を何度か経験しました。恐ろしくなって、大切な人を失った以降は、たとえ、どんなことがあろうとも、『あいつ、邪魔だ』とは思わないことにしました。私が38歳ごろの決心でした。それ以降、たとえ、エホバの証人さん達が、しつこく訪問して来られても、大歓迎してもてなし、お話しを聞かせて頂くことにしています。
 信じきって祈ると、本当に、それが現実化する可能性が高まるのです。呪詛(じゅそ)とは、のろい殺すことです。株価が上がるか下がるかは、確率五分五分なのですが、皆が、『下がるんじゃあないか』と思うから、結果的に下がっているし、多くの人が『上がるんじゃあないか』と思うから、結果として、上がっている、という事実にも、通じることなのです。
一番怖いことは、『この世の中は、近々に滅びるのじゃあないか』とか、『相手国が襲ってくるんじゃあないか』なんて、多くの人が信じ込んでしまうことなのです。 だから、『どんな苦境に追い込まれても、自分は損をしてもいい、きっと 良い方に転がって行くんだ』と、信じて疑わなければ、その通りの展開になって行くのです。 これはイエスの教えであると同時に、私の経験学でもあるのです。
【 彼らはまたエルサレムに来た。そして、イエスが宮の内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、みもとに来て言った、「何の権威によってこれらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けられたのですか」。
 そこで、イエスは彼らに言われた、
「一つだけ尋ねよう。それに答えてほしい。そうしたら、何の権威によって、私がこれらの事をするのか、貴方がたに言おう。ヨハネのバプテスマは天からであったか、人からであったか、答えなさい」。 すると、彼らは互いに論じて言った、
「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。しかし、人からだと言えば・・・」。
彼らは群集を恐れていた。人々が皆、ヨハネを預言者だと本当に思っていたからである。
 それで彼らは「私達には分かりません」と答えた。するとイエスは言われた「私も何の権威によってこれらの事をするのか、貴方がたには言うまい」。】
・・・ 一休和尚さんのとんち問答のようで、面白いですね。
 マルコによる福音書 【第12章
【 そこでイエスは譬で彼らに語り出された、
「ある人がぶどう園を造り、垣をめぐらし、また酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫達に貸して、旅に出かけた。季節になったので、農夫達のところへ、ひとりの僕(しもべ)を送って、ぶどう園の収穫の分け前を取り立てさせようとした。
 すると、彼らはその僕をつかまえて、袋叩きにし、から手で帰らせた。また他の僕を送ったが、その頭をなぐって侮辱した。 そこでまた他の者を送ったが、今度はそれを殺してしまった。そのほか、なお大勢の者を送ったが、彼らを打ったり、殺したりした。
 ここに、もうひとりの者がいた。それは彼の愛子であった。自分の子は敬ってくれるだろうと思って、最後に彼を遣わした。すると、農夫達は『あれは跡取(あととり)だ。さあ、これを殺してしまおう。 そうしたら、その財産は我々のものになるのだ』と、話し合い、彼をつかまえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。 このぶどう園の主人は、さて、どうするだろうか。
彼は出てきて、農夫達を殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう。貴方がたは、この聖書の句を読んだことがないのか。『家造りの捨てた石が、隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、私達の目には不思議に見える』」。
 彼らはいまの譬が、自分達に当てて語られたことを悟ったのでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。そしてイエスをそこに残して立ち去った。】
… この話しは風刺としては最高に傑作な話ですね。いや、実によく出来た話しです!
【 さて、人々はパリサイ人やヘロデ党の者を数人、イエスの下(もと)に遣わして、その言葉じりを捕らえようとした。 彼らは来てイエスに言った、「先生、私達はあなたが真実な方で、誰をも、はばかられないことを知っています。あなたは人に分け隔てをなさらないで、真理に基づいて神の道を教えて下さいます。 ところで、カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。 納めるべきでしょうか。納めてはならないのでしょうか」。
イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、「なぜ私をためそうとするのか。 デナリを持ってきて見せなさい」。 彼らはそれを持ってきた。そこでイエスは言われた「これは、誰の肖像、誰の記号か」。彼らは「カイザル(シーザー)のです」と答えた。 するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。 彼らはイエスに驚嘆した。】
… これも、最高傑作の上に超が付く傑作品です。誰だって、驚嘆しますよ。

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B・「マルコ書」新約聖書に在る奇跡の数々。日本語1955版」カテゴリの記事

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