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2015年4月 4日 (土)

ル9、晩餐会への招待。地の塩!放蕩息子?話の捏造。

【 ちょうどその時、あるパリサイ人達が、イエスに近寄って
来て言った、「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを
殺そうとしています」。そこで彼らに言われた、
「あのきつねのところに行ってこう言え、『見よ、私は今日も
明日も悪霊を追い出し、また、病気を癒し、そして3日目に
わざを終えるであろう。
 しかし、今日も明日も、またその次の日も、私は進んで行か
ねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことは、
あり得ないからである』。 ・・・

・・・ ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、
おまえに遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。 ちょうど、
めんどりが翼の下にひなを集めるように、私はおまえの子ら
を幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえ達は
応じようとしなかった。見よ、おまえ達の家は見捨てられて
しまう。 私は言って置く、
『主の名によってきたるものに、祝福あれ』とおまえ達が言う時
の来るまでは、再び私に会うことはないであろう」。】
・・・ 随分と乱暴な発言で、イエスの言葉とも思えず、戸惑っ
   ていますが、本日は、20年前のオーム真理教事件:
   「地下鉄サリン事件」が起った日です。またチュニジアで
  日本人を含む20人の殺害事件も数日前に発生しており、
 お叱りを受けるとは思いつつ、ついつい新興宗教の危うさ
 さえも、感じてしまうのですが、、。浅原彰晃(松本ちずお)
 も、ある種の精霊(彼の場合は悪霊の悪例)でしょうが、この
 ような霊の働きを、天の神様はもっとしっかりコントロールし
 て頂きたいなあ、と思う次第です。沈黙を守っているのは、
 無責任ですし、これを読んでいるあなた自身も、その悪の
           一部を担っ
ていることに、気がついて欲しいのです。
 ルカ ・・・ 【第14章】~
【 ある安息日のこと、食事をするために、あるパリサイ派
かしらの家に入って行かれたが、人々はイエスの様子をうか
がっていた。 するとそこに、水腫をわずらっている人が、
みまえにいた。イエスは律法学者やパリサイ人達に向かって
言われた、「安息日に人を癒すのは、正しいことかどうか」。
 彼らは黙っていた。
そこでイエスはその人に手を置いて癒してやり、そしてお帰し
になった。 それから彼らに言われた、
「貴方がたのうちで、自分の息子か牛が井戸に落ち込んだな
ら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者が
いるだろうか」。 彼らはこれに対して返す言葉がなかった。】

【 客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をご覧になっ
て、彼らに一つの譬を語られた。
「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、貴方より
も身分の高い人が招かれているかも知れない。
 その場合、貴方とその人とを招いた者が来て、
『 この方に席を譲って下さい。』と言うであろう。そのとき、
貴方は恥じ入って末座につくことになるであろう。
 むしろ、招かれた場合には、末座に行って座りなさい。
そうすれば、招いてくれた人が来て『友よ、上座の方へお進み
ください。』と言うであろう。 そのとき、貴方は席を共にする
       みんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。
 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、
         自分を低くする者は高くされるであろう」。
また、イエスは自分を招いた人に言われた、
「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族
、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招き
かえし、それで貴方は返礼を受けることになるから。
むしろ、宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、足なえ、盲人
などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼できないから、
 あなたは幸いになるであろう。
  正しい人々の復活の際には、貴方は報いられるであろう」。
 列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする
人は、幸いです」と言った。 そこでイエスが言われた、
「ある人が盛大な宴会を催して、大勢の人を招いた。晩餐の
時刻になったので、招いておいた人達のもとに僕を送って、
『さあ、おいでください。もう準備が出来ましたから』と言わせた。
 ところが、みんな一様に断わりはじめた。
 最初の人は、
『私は土地を買いましたので、行って見なければなりません。
どうぞお許しください』と言った。 ほかの人は、
『私は五対の牛を買いましたので、それを調べに行くところ
です。どうぞ、お許しください』、 もうひとりの人は、
『私は妻をめとりましたので、参ることが出来ません』と言った。
すると家の主人は怒って僕に言った、
『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、
盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。
 僕は言った、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、
まだ席がございます』。 主人が僕に言った、
『道や垣根の辺りに出て行って、この家が一杯になるように
、人々を無理矢理に引っぱってきなさい。
貴方がたに言って置くが、招かれた人で、
   私の晩餐にあづかる者はひとりも無いであろう』」。】
・・・ イエスは既に、殺されることを覚悟していて、人々を
   挑発しておられるようにも、感じてしまいます。
  相手を思いやる思想の持ち主であっても、招かれた宴席
で、こんな説教をぶち上げたら、十中八九、追い出されます。
あなたは真似しない方が無難でしょう。
 大勢の群集がついて来たので、イエスは彼らの方に向いて
言われた、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、更に
自分の命までも捨てて、私のもとに来るのでなければ、私の
弟子となることは出来ない。
 自分の十字架を負うて、私について来るものでなければ、
私の弟子となることは出来ない。
あなた方のうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、
それを仕上げるのに足るだけの金を持っているかどうかを
見るため、まず、座ってその費用を計算しないだろうか。
 そうしないと、土台をすえただけで完成することが出来ず、
見ているみんなの人が、『あの人は建てかけたが、仕上げが
出来なかった。』と言ってあざ笑うようになろう。
 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行
く場合には、まず座して、
『 こちらの1万人をもって、2万人を率いて向かって来る敵に
 対抗できるか』どうか、考えて見ないだろうか。
 もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、
使者を送って、和を求めるであろう。 それと同じように、
貴方がたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るもので
なくては、私の弟子となることは出来ない。
 塩はよいもの だ。しかし、塩も効き目がなくなったら、
何によって、塩味が取り戻されようか。
 土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。
               聞く耳のあるものは聞くがよい」。】
・・・ 最初に書かれた「マルコ書」と同じ噺がコピーされ、
   繰り返されて出て来ているのですが、微妙に表現が
   異なって来ていて、「心に響いて来るもの」が、
   ありません。もしくは、違和感・抵抗感が出て来ます。
   そう、思いませんか。〔あるいは、翻訳者の違いか?〕
ルカ書 ・・。【第15章】
【 さて、取税人や罪人達が皆、イエスの話を聞こうとして
近寄ってきた。するとパリサイ人や律法学者達がつぶやいて
「この人は罪人達を向かえて一緒に食事をしている」と言った。
 そこでイエスは彼らに、この譬をお話になった、
「貴方がたの内に、百匹の羊を持っている者がいたとする。
その一匹がいなくなったら、99匹を野原に残しておいて、
いなくなった1匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか

そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰っ
てきて友人や隣り人を呼び集め、『私と一緒に喜んで下さい。
いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
 よく聞きなさい。それと同じように、罪人ひとりでも悔改めを
必要としない99人の正しい人のためにもまさる大きい喜びが、
                        天にあるであろう。】
・・・ この譬は、現代には通用しないのではないか。
  『99匹をほったらかして』はあり得ない。1匹は1匹の羊
  としての価値しか有り得ない(売れない)でしょ。
   ペットとして飼っているのではないはず。
  どうもイエスが言ったにしては、センスが悪すぎる
  次の銀貨の話しも、同様です。
  何やら、ある意図を内に秘めて、無理して話されている
      感じが臭ってきます。
【 また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその1枚を失
くしたとすれば、彼女は明かりをつけて家中を掃き、それを
見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。そしてそれを
見つけたなら、女友達や近所の女達を呼び集めて、『私と
一緒に喜んで下さい。なくした銀貨が見つかりましたから

                         と言うであろう。
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔改め
     るなら、神の御使たちの前で喜びがあるであろう」。】
・・・ 次が有名な「放蕩息子」の話しですが、
  改めて是を読み直してみて、イエスが実際に言われたの
 かも知れませんが、
 これは、イエス様の方が間違っておられる、と解釈しました。
       まずは、読んで見て下さい。
【 また言われた、「ある人に、ふたりの息子があった。
ところが、が父親に言った、
『父よ、あなたの財産の内で私が頂く分を下さい』。そこで、
 父はその身代を ふたりに分けて やった。
それから幾日もたたない内に、弟は自分の物を全部取り
まとめて、遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ち崩してしまっ
た後、その地方にひどい飢饉があったので、彼は食べること
にも窮しはじめた。
 そこで、その地方のある住民のところに行って、
身を寄せていたが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。
彼は、豚の食べる”いなご豆”で腹を満たしたいと思うほど
であったが、何もくれる人はなかった。
 そこで彼は本心に立ち返って言った、
『父のところには食物のあり余っている雇人が大勢いるのに
、私はここで飢えて死のうとしている。
 立って、父のところへ帰って、こう言おう、
 父よ、私は天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯し
 ました。もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。
 どうぞ、雇人のひとり同様にしてください。』
そこで立って、父のところへ出かけた。
まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り
寄り、その首をだいて接吻した。息子は父に言った、
『 父よ、私は天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯し
 ました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。』
 しかし父は僕たちに言いつけた、
『さあ早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を
 手にはめ、履物を足に履かせなさい。 また、肥えた子牛を
 引いて来てほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
 この息子が死んでいたのに生き返り、
        いなくなっていたのに、見つかったのだから。』
 それから祝宴がはじまった。
ところが、は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽
や踊りの音が聞こえたので、ひとりの僕を呼んで、
『いったい、これは何事ですか』と尋ねた。僕は答えた、
『あなたの兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたという
 ので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
 兄は怒って家に入ろうとしなかったので、父が出てきて、
なだめると、兄は父に向かって言った、
『私は何ヶ年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけ
に背いたことはなかったのに、友達と楽しむために子やぎの
1匹も下さったことはありません。 それだのに、
遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶした この
あなたの子が帰って来ると、
        そのために肥えた子牛をほふりなさいました。』
 すると父は言った、
「子よ、あなたはいつも私と一緒に居るし、また私のものは、
全部あなたのものだ。 しかし、このあなたの弟は、死んでい
たのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、
                喜び祝うのは当たり前である』」。】
・・・ 読者の皆さんは、どう思いましたか。
   私はが怒るのは当たり前で、父が可笑しいと思うのです
   が、いかがですか。
  身代をふたりに分けたのなら、父は兄に居候する形で、生活
していたはずでは。 ですから、父は、弟が帰って来た時に、
兄に対して少なくとも、「歓待してやろうじゃないか」ぐらいな話
しがあって当然だったのに、それもしないで祝宴を張っていた。
兄から文句を言われた時、「そうだよね」と、兄のこれまでの愛
に対して改めて感謝しつつ「弟を迎えてやろうよ」と提案すれば、
穏当だったのです。
 だから、「兄を人情なし」と断定して『父とはそう言うもんだ。』
という論理は、唯一神の概念からは、大きくずれる
と言わざるを得ません。
       センスの悪い話が、まだまだ続きます。 
        この際一括記載して置きましょう。
【第16章】 《===( 別人の創作でしょう。)
【 イエスはまた、弟子達に言われた、「ある金持のところに
ひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、
告げ口をする者があった。 
 そこで主人は彼を呼んで言った、
『 貴方について聞いていることがあるが、あれはどうなのか。
 貴方の会計報告を出しなさい。
  もう家令をさせておくわけにはいかないから。』
 この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人が私の職を
取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物乞いする
のは恥ずかしい。 そうだ、分かった。こうしておけば、職を
辞めさせられる場合、人々が私をその家に迎えてくれるだろう。』
それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、
初めの人に、『貴方は、私の主人にどれだけ負債がありますか』
と尋ねた。『油百樽です』と答えた。
 そこで家令が言った、『ここに貴方の証書がある。
              すぐそこに座って50樽と書き換えなさい』。
次に、もうひとりに『貴方の負債はどれだけですか』と尋ねると、
『麦百石です』と答えた。これに対して、
『ここに、貴方の証書があるが、80石と書き換えなさい』と言った。
 ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方を誉めた
この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。
また貴方がたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために
友達を作るがよい。 そうすれば、富が無くなった場合、貴方がた
を永遠の住まいに迎えてくれるであろう。
 小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、
 小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。
 だから、
もし貴方がたが不正の富について忠実でなかったら、だれが
真の富を任せられるだろうか。
 また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、
誰が貴方がたのものを与えてくれようか。
 どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることは出来ない。
一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を
うとんじるからである。貴方がたは、
            神と富とに兼ね仕えることは出来ない」。】
・・・ センスが悪すぎる。別人の創作ではないか。
   「二君に使えず」という仁義や信義の問題を提起するの
  には、余りに例が悪いし、センスが無い説法ですよね。
   イエスが果たしてこんなことを言ったのでしょうか?
  牧師様も神父様も、相当悩んでおられるのではないかな。
 イエス?ノー?
【 欲の深いパリサイ人達が、全てこれらの言葉を聞いて、
イエスをあざ笑った。
そこで彼らに向かって言われた、
「貴方がたは、人々の前で自分を正しいとする人達である。
 しかし、神は貴方がたの心をご存知である。人々の間で尊ばれ
るものは、神のみ前では忌み嫌われる。
律法預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、
神の国が宣べ伝えられ、人々は皆、これに突入している。
 しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、
     もっとたやすい。 全て自分の妻を出して他の女を
                めとる者も、姦淫を行う者である。】
                ====( 理解不能。)===
【 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに
遊び暮らしていた。ところが、
ラザロという貧乏人が全身出来物でおおわれて、この金持の
玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごう
 と望んでいた。その上、犬が来て彼の出来物をなめていた。
 この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハム
のふところに送られた。金持も死んで葬られた。
そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムと
そのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。
 そこで声をあげて言った、
『 父、アブラハムよ、私を哀れんで下さい。ラザロをお遣わ
 しになって、その指先を水でぬらし、私の舌を冷やさせて
 ください。 私はこの火炎の中で苦しみもだえています。』
 アブラハムが言った、
『 子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロ
の方は悪いものを受けた。 しかし今ここでは、彼は慰められ、
あなたは苦しみもだえている。そればかりか、私達と貴方がた
との間には大きな淵がおいてあった。
 こちらから貴方がたの方へ渡ろうと思っても出来ないし、
   そちらから私達の方へ越えてくることもできない。』
 そこで金持が言った、
『父よ、ではお願いします。私の父の家へラザロを使わして
ください。 私に五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ
来る事がないとうに、彼らに警告して頂きたいのです。』
 アブラハムは言った、
「彼らには、モーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう。』
 金持が言った、
『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中から誰かが兄弟達
   の所へ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう。』
アブラハムは言った、「 もし彼らがモーセと預言者とに耳を
傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、
       彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。】
・・・ 言いたい事は何となく分かりますが、如何せん
センスが悪過ぎます。 イエスとは、別人の創作でしょうね。
浄土真宗のお坊さんにも、説教の上手い方がおられます。
もっと上手なたとえや、世間話をなさいますよ。
        牧師さんがた、恥ずかしいとは思いませんか?
【第17章】
 イエスは弟子達に言われた、「罪の誘惑が来ることは避けら
れない。 しかし、それをきたらせる者は、災いである。
 これらの小さい者のひとりを罪にい誘惑するよりは、むしろ、
ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましで
ある。 貴方がたは、自分で注意していなさい。
もし貴方の兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして
悔い改めたら、許してやりなさい。 もしあなたに対して、
1日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます。』と言って
    貴方のところへ帰ってくれば、許してやるがよい」。】
・・・ 「仏の顔も三度まで」で、充分ですよ!
 だいたい、こんなこと、何処の国のクリスチャンが実行して
       おられると、仰るのですか?
【 使徒達は主に、「私達の信仰を増して下さい」と言った。
そこで主が言われた、
「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、
『抜け出して海に植まれ。』と言ったとしても、その言葉通りに
なるであろう。 貴方がたの内の誰かに、耕作か牧畜かをする
僕(しもべ)があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、
 彼に、『すぐきて、食卓につきなさい。』と言うだろうか。
かえって、『夕食の用意をしてくれ。そして私が飲み食いする
間、帯をしめて給仕をしなさい。 その後で、飲み食いをする
がよい。』と、言うではないか。 僕が命じられたことをした
からといって、主人は彼に感謝するだろうか。
 同様に貴方がたも、命じられたことを皆してしまったとき、
『私達はふつつかな僕です。
     すべき事をしたに『過ぎません』と言いなさい」。】
・・・ センスが悪すぎます。イエスがこんな無様な譬の話を
   なさった訳は、ありません。
こんな屁理屈を正当化しようと努力する人々を、律法学者
言い、パリサイ人とイエスは言われたのではないでしょうか。

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