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2023年9月

2023年9月29日 (金)

国士無双 「史記」韓信の登場。横山光輝の漫画 第37話より転載。「史記」を読むべし!!

 韓信は准陰(わいいん:江蘇省)の貧しい平民の子であった。容姿も見栄えしなかったといわれている。生年月日は不明である。
若い頃は学者の門下生となり、勉学に励んだようである。
郷里の母が死んだという知らせが入った時、韓信は葬式にも行かなかった。これが師の耳に入り、師は激怒し、韓信を破門とした。
 韓信は小高い丘の上に母の墓を造った。
おっ母おれの家は貧乏だ。帰っても葬式を出せる金もねえ。親類の人がなんとかやってくれるだろうと思って帰らなかった。でも、先生は「孝」の道にはずれるといってとても怒った。それで おれ流の孝行のつもりでここに墓を造った。
おっ母王様は自分の墓を造る時、その麓に町を造り墓守をさせる。今はここはさびしい丘だが地の利からいってここにかならず町が開ける。そしておっ母、の墓守をしてくれる。しばらく我慢しておくれ。』

 その後、韓信は准陰(わいいん)郡の下郷(かきょう)にある南昌の亭長(最下級役人)の居候(いそうろう)となった。
韓信は、そこで毎日ゴロゴロとしていた。ちょっとした家事も手伝おうともしなかった。亭長(ていちょう)の妻は怒り、食事をこっそり寝室で食べ、韓信には食事を出さなくなった。
韓信は仕方なく、その家を飛び出し、放浪者の生活をはじめた。
『ふうー、腹がすいた。目まいがしそうだ。』
それを見かねた老婆が、
わしの昼飯じゃ。お食べ」と声をかけた。
「婆さんすまない。おれは、いずれ出世する。その時にこの恩は返すよ。」
馬鹿おいいでないよ。自分の食事も満足にできない能無しが、なんで出世出来るもんかね。そんな才があるなら自分の食事くらい自分で出来るよう考えるんだね。」
 こんな調子だから、韓信の評判はすこぶる悪かった。
 「おい、見な。韓信だぜ。」
「あの野郎、貧しい婆さんに毎日のめしをめぐんでもらっているそうだぜ」
「そのくせ、剣だけはてばなさねえ」
「ちょっと からかってやるか」
「よし、面白い。やろう」
その男達は食肉用の野犬狩りをする気の荒い連中だった。
「よう、韓信… おまえ、その剣はなんのために持っている? まさか飾り物でもあるめえ。度胸があったらわしを突いて見な」
「さあさあ、通行人の皆様方よ、これから韓信の剣の舞がみられるぜ」
おれはこんなやつらと命のやりとりをするために学問を学んだのではない。一国一城の主になるために学んできたのだ
どうした、なぜ突かねえ。突けねえのならわしの股をくぐれ!!そしたらここは通してやる!!
恥は一時、志は一生だ。ここは我慢だ。
韓信はこんな時でも冷静に状況を判断する男だった。
韓信は黙って股をくぐった。有名な韓信の股くぐりである。
ひゃー、見ろ。やつは股をくぐったぜ。
人々は笑いころげた。そしてあざけりをこめて韓信のことを股夫(こふ)と呼んだ。

 間もなく農民:陳勝が反乱を起こし、秦の暴政に苦しんでいた人々は、それに呼応し、反秦の火は全国に広がった。
この流れに乗って、楚の項梁、項羽も秦打倒の旗を掲げた。秦の暴政に苦しんでいた人々は続々と項梁のもとへ集まった。
韓信は、学んだものを生かし、世に出るのはこの時とばかり、楚軍に加わった。しかし、身分もなく無名の関心は、ただの雑兵であった。韓信は次々と献策をした。しかし、
その献策は無視され、ホコリをかぶった
韓信は雑兵のまま楚軍と行動を共にした。
 だが、関中にたどりついてみると既に
南路から進んだ劉邦が関中一番乗りをし、
覇上(はじょう)で待機していた。
おどろいたな、わが軍の四分の1の兵力で沛公(劉邦)は、よく一番乗り出来たものだな。」
関中一番乗りをしたものを関中の王にすると、懐王さまは約束された。これで関中の王は沛公だ。おれ達はたいした出世も出来ないな
ところがそうでもないらしいぞ。
項羽大将軍は沛公を滅ぼす考えらしいぞ。項羽将軍は秦の財宝や関中を沛公に渡す気はない。そこで何かの理由をつけて沛公を攻め滅ぼすというのだ。沛公はそれを恐れて、ここへ釈明にくるらしいぜ
ところで沛公は兵力も少ないのに、よく秦軍を突破して一番乗りを果たしたな。
沛公は賢人の言うことによく耳をかすそうな。それが成功の秘訣だというぞ。」
「ほう、人の言葉に耳をかすのか」と、自分の献策が無視された韓信にとって、それは魅力的な言葉だった。

 項羽は力によって有無を言わせぬ方法で論功行賞を決めた。それは不公平なものであった。
本来ならば関中の王となるべき劉邦には、関中の一部【巴と蜀のみ】の地を与え、漢中を都と定め、漢王とした。

なにっ、沛公は〔巴と蜀のみ〕の王だと!それでは懐王の約束とは違うではないか
「項羽大将軍は〔巴と蜀〕も関中の一部であるゆえ、約束にたがわぬと申されたそうだ」
しかし〔巴と蜀〕の地は秦が流刑の地ときめた僻地だぞ。それをよく受けたものだな。
もし文句を言ってみろ。たちまち滅ぼされる。項羽さまはそれを狙っているのだからな。」
それだけではない。つれて行く兵も三万までと決められた…
ところが〔巴と蜀〕の地と聞いて、反秦のために劉邦軍に合流した兵はしりごみし、漢王は兵を募集しているそうな。」

『そうか、兵を募集しているのか。楚軍にいては しょせん雑兵のまま。
漢王は、人の話に耳をかたむけると聞くし、応募してみるか。』
こうして韓信は漢中行きに応募したのである。

しかし、漢中に向かううちに兵士達はだんだん不安になってきた。漢中は古代に海底から隆起した土地で、険しい山が連なっていた。現代でも山頂から貝の化石が発見されている。
しかも、道といえば、崖にそって作られた桟道である。その桟道を通過したあと、次々と焼き払いだしたからである。
おい、これではおれ達は故郷へ帰ることが出来ぬぞ
そうだ、父母や妻子にも会えずに、この僻地でくち果てるのか
ふーん、誰の入れ智恵かしらんが、漢王はなかなかやるな。
これで項羽は安心し、間者の入り込む余地もない。身の安全は守れるし、東進するための準備も心おきなく出来る。』

 劉邦は漢中の南鄭(なんてい)を都として、国造りをはじめた。しかし、応募して来た兵から、脱走者が続出した。
漢中について間もなく十三人の男が捕らえられ、斬首を宣告された。
その中に韓信がいた。
連座制で捕らえられたとあるが、何の罪で捕らえられたのかは記されていない。十三人の男達は次々と斬首されていった。
 次! 」
韓信の番であった。
斬首される前に、一言申しあげたい!
なんじゃ?
漢はこれから国を興さねばならぬ時、天下を望まんとする上(しょう)が何ゆえ壮士を斬る!
 な、なにっ!? そちは(しょう)といったが、誰をさしていったのだ。」
「もちろん、漢王さまです。」
天下を望むと申したが、それは項羽どのではないか?
「違います!わが君はこの地でくち果てる気はありませぬ。壮士のわたしをむざむざ殺すは、漢の損失です!
では劉邦さまが天下を狙っていると申すのか?
「そう思ったから、この僻地までついてきたのです」
ふむう…。おまえは自分で自分を推挙するのだな。
「まわりに目のある人がいれば、わたしを殺しますまい。」
『…
こやつの言葉づかい、他の雑兵とはどこか違う…。
よし、わかった。
そなたがそれほどの器かどうか、わかるまで斬首を伸ばそう
 こうして韓信の斬首は延期された。

「夏侯嬰(かこうえい)殿、それでその男の斬首を延期されたのか?」
蕭何(しょうか)丞相(じょうしょう)、わが漢がいま一番必要としているのは人材でございます。その男、ただの雑兵とは思えませぬ
ふーん、夏侯嬰(かこうえい)殿が、そこまで言われるなら会ってみよう。その男が命ほしさに、ホラを吹いたのかもしれんしな」
ぜひ、お確かめ下さりませ

 翌日、韓信は丞相(じょうしょう)蕭何(しょうか)の屋敷に呼び出された。
「夏侯嬰の申すには、そなたは自分の首をはねるは漢の損失だと申したそうだの。」
「さよう。」
「それは命が助かりたいために言ったのか、それとも自分を売り込みたいために言ったのか、これから調べる。
そちは学問で何を学んだ?」
兵法です。
「兵法… ? … いったい何のために学んだ?」
いずれ一国一城の主になるために学びました。
「ほう。 それで誰の兵法を学んだ?」
すべての兵法です。
「なにっ、そなた、命が助かりたいと思っていい加減なことを申してもすぐわかることだぞ」
いい加減かどうか、どうかお確かめくださいませ
「これ、兵法書を持って参れ。」
はっ。
中国の五大兵法書といえば、太公望の六韜(りくとう)、黄石公の三略、孫武の孫氏、呉起の呉氏、司馬譲且の司馬法、である。
「ではまず、孫氏 からまいろう。兵法書にかかれていることを述べよ」
はい。
韓信は一言一句、間違いなくしゃべったのである
「う…うむ。間違いない。
   では、司馬法を述べよ。」
韓信は同じようにすらすらとしゃべったのである。
「…信じられん。」
蕭何はほかの兵法書についてもしゃべらせた。
韓信は、どの兵法書に対しても間違いなくすらすらと答えたのである。
「た…確かにそなたが兵法を学んでいたことは証明された。しかし、
その昔、天才と言われた趙の趙括は「長平の合戦」で秦の白起将軍に敗れ、趙軍四十万を生き埋めとされ、趙に滅亡の道を歩ませた。
  これを、どう思う?」
「あれは趙括が兵法書をまる暗記していたにすぎません。」
「というと、…?」
戦というものは、四季・地形・状況によって応用すべきものなのです。
趙括は教科書通りに動きました。それで白起に手の内を読まれてしまい、裏をかかれたのです。敗れて当然と思います。」
「こ、こやつは天才だ…!」
「そなたは、一国一城の主になりたくて兵法を学んだと申したな。」
「はい。」
「ではそれを認められれば、わが漢のためにも尽くすのじゃな。」
「はい、そう思って漢中にまで参ったのです。」
 蕭何はこの面接で韓信を高く評価した。

「ほう、そのような優れた男がいると申すのか。」
「はい、この男、かならずや漢のために役立つ男です。重い役目をお与え下さりませ。」
「しかし、お前の報告を判断すると、楚軍に加わり、項梁、項羽の下で雑兵のまま…。
それほど高く買う必要があるのか…?」
「それはお言葉通りです。しかし、まわりが韓信の才能に気が付かなかったと思われまする。」
「ふーん。
 まあ、お前がそこまで推挙するならば、お前の顔を立てて食糧官にいたそう。」
「ははー!」
食糧官というのは年貢米を取り立てる役目である。韓信はそれを真面目に務めた。しかし、心の中では満足していなかった
おれはこんな僻地で食糧官として生涯を終わる気はない。いま、天下には十八人の王がいる。人を求めているところもあろう。他国へ行こう。」
 韓信はそう決心すると、漢中から抜け出した。

丞相邸にて蕭何(しょうか)
なにっ、韓信が逃亡したと。」
「はい、早朝、城門が開くとともに出て行きました。」
それはいかん。あの男は失ってはならん。
  これ、馬を引け!
「はっ。」
 蕭何はおどろいて韓信のあとを追った。
会う人に人相風体を伝え、どちらに行ったかたずねながら、韓信の後を追った。
夜になってやっと、韓信に追いついた。
韓信は野宿の用意をしていたのである。
韓信どの、黙って逃げ出すとは、水臭いではないか。
丞相… …。丞相さまにはいろいろ気を使っていただき申し訳なく思っています。しかし、わたしはこの僻地で生涯を食糧官として終わる気はありません。
わたしが求めるものは、賢君に仕え、自分の才能を発揮できる場所を与えられることです。
「わかっている。
その才能を漢王のために使って下され。
もう一度、漢王に強く推挙いたします。それで駄目なら、漢の未来はない。その時は私も漢を捨てましょう。」
「蕭何さまは、わたしのことをそこまでも…。」
「当然だ、だからこうして一人で追ってきた。」
「ありがとうございます。蕭何さまを信じ、ではもう一度、漢にもどります。」
「おお、ありがたい。」
 こうして二人は漢へ引き返した。

次の朝、劉邦が「これ、朝議を始めるにしても丞相の姿が見当たらぬではないか。これでは朝廷は開かれぬ。
 すぐに呼んで参れ。」
「それが丞相さまは、昨日からおりませぬ。」
「なにっ、どういうことか?」
「はい、丞相さまも、逃げ出したものと思われまする。」
な、なんだと。
 そのような形跡があるのか?
「はい、昨日、丞相は関を飛び出していったそうです。」
「な、なぜじゃ。丞相は沛よりわしの片腕として、ずーっとついて来た男だぞ。」
「近頃、故郷を慕うあまり、関東に逃げ出す者が後を絶ちませぬ。おそらく丞相も故郷が恋しくなったのでございましょう。」
「なんということだ。これからの国造りに、わしはお前を頼りにしていたのに……」

「申し上げます。丞相さまが帰って参りました。」
「なに、帰って参ったと。」
 劉邦はうれしいやら、頭にくるやら、複雑な気持であった。
この時、蕭何が入ってきた
「よし、本日の朝廷は中止だ。」
当時、中国では早朝に会議を開いて物事を定めていたので、それを朝廷といった。
「丞相、話がある。別室に参れ。」
「ははっ。」
「蕭何よ、なぜ逃げようとした?返答次第では、そちとて許さぬぞ」
「漢王様、それがしは逃げたのではなく、漢から逃げた人材を追っていたのでございます。」
「なにっ? 今まで兵や将が逃げても追いかけもしなかったお前が、誰を追いかけたと申すのじゃ。」
「韓信にございます。」
「な、なにっ? 韓信といえば、お前の推挙で食糧官にしてやった男か。」
「はい、あの男こそ、天下に二人とおらぬ人物、真の国士無双にございます。」
「なにっ、あの男が 国士無双 だと、。」
はい、わが国の将には一騎打ちをすれば強い将もおりまする。しかし、知識を備え、兵を動かせる将はおりませぬ。
漢王さまが この漢で老いさらばえる気なら、韓信の去るのは放っておいてようございます。」
「馬鹿を申せ。懐王は先に関中に入った者を関中王にすると約束した。わしは本来ならば、関中王だ。ここにくすぶっている気はない。」
ならば、項王と一戦交えねばなりませぬ。だが、わが軍に項王に勝てる将がおりますでしょうか。」
「そ、それは……」
それを出来るのは韓信だけでございます。韓信にやり甲斐のある任務を与え、引き留めることです。」
「ふーん。」
「わかった。お前の顔を立てて将軍にしよう。」
将軍ぐらいでは引き留められません。」
「では、何にいたすのだ。」
大将軍です。」
「な、なにっ、大将軍といえば、国の兵権をあずけるのだぞ。楚で雑兵だった男に兵権をあずけよ、というのか。」
はい、わたしは韓信を、国士無双と信じております。」
「わかった、わかった。関心を呼んで大将軍に任命しよう。」
それが漢王さまの悪い癖です。
「なにが・・?」
漢王さまの欠点は礼儀を知らぬということです。子供でも呼びつけるようにーー大将軍に任命するなど、無礼でございます。まず韓信に敬意をはらい、吉日を選び、式場を設けて、それなりの儀礼をととのえねばなりませぬ。」
「わ、わかった。わかった。お前にまかせる。」
ではまず、韓信を大将軍に任命する拝将台を建てまする。」
 こうして拝将台が建てられた
韓信が大将軍に任命されると伝わると、全軍があっけにとられたのである。
韓信の大将軍の任命式は拝将台 でおごそかに行われた。
「韓信大元帥よ、東進するにはこれからどうすればよいか、大計を教えてくださらぬか。」
大王さまが、これより東進し、天下の覇権を争う相手は、項王です。
「もちろんじゃ。」
では、お聞きします、勇猛と強大さでは項王と漢王さまと、どちらがすぐれておりますか?
「そ、それは…… わしが及ばぬ。」
「わたくしも漢王さまが及ばないと思います。しかし、わたくしも項王に仕えた身、項王のことはよく知っています。
項王が怒れば、まわりの者全員がひれ伏します。しかし、賢将に任せるという事が出来ません。
 これは「匹夫の勇」です。
また、部下にやさしい言葉をかけ、思いやりもあります。負傷者を見ると涙して自分の食事を分け与え、女性のような情をみせまする。しかし、
人が手柄を立て、いざ爵位を授ける時になるとしぶり、印をもてあそび、印がすりへるほどになっても授けようとはしません。
これは「夫人の仁」にすぎませぬ。
 項王は天下に覇をとなえ、自分の気に入った者ばかりを王に封じ、不公平な恩賞を行いました。そればかりか、義帝を彭城から追い出し江南の僻地へ行かせました。これを見習って、新しい王は旧主を僻地へ追いやっております。
項王のいくところ、殺戮と破壊だけです。これでは天下の怨みを買い、人民から慕われず、力でもっておさえ込んでいるだけです。「その強きは、弱めやすし」とはこのことです。
 だから漢王さまは項王の逆を行うべきです。部下を信じ、手柄をたてれば一城を与える。その気持ちがおありならば、武将は命をかけて、大敵と戦いましょう。
「なるほど、項王の逆をやれと申すのじゃな。」

さて、東進するにはまず、章鄲(しょうかん:擁王)、司馬欣(しばきん:塞王(さいおう))、董えい(擢王てきおう)の上中下の三秦を突破しなければなりません。これは心配なさることはありませぬ。」
「なぜだ、三人とも秦帝国のすぐれた将軍だぞ。」
そこなのです。三人は二十万の秦兵と共に項羽に降伏しましたが、兵士は全員生き埋めとなり、自分達だけが助かり王となりました。このため兵士の家族は三人を深く怨んでおりまする。
漢王さまは、秦に入っても乱暴はなさらず、秦の民を安堵させました。東進なされば秦の民は喜んで漢王さまに協力いたしましょう。
ふーっ、ただの雑兵と思っていたが、これは大変な男だ。」
なるほど、丞相が大将軍に推挙したことが理解できる。この男ならば成功するやもしれん。」
劉邦『蕭何の言う通り、この男はまさに国士無双だ。逃げられずにいてよかった。』
 誰もが韓信の大抜擢を納得したのである。

 韓信がまず始めたことは兵をきたえ、精鋭にすることであった。
きびしい軍規を作り、違反する者は容赦なく斬首とした。
将兵達の間に緊張が走り、懸命に訓練を始めた。と同時に、ひそかに桟道(さんどう:崖沿いに造る橋)の修復を命じた。

「なにっ、東進を開始すると!」
「はい。 密偵が項王の情報を持って参りました。斉で反乱が起こり、斉に向かったそうにございます。」
「なに、斉が反乱を!
はい、項王の決めた斎王に、田栄が反発し、反乱を起こしたそうにございます。」
「では項王はすぐに兵を出して鎮圧したであろう?」
「いいえ、田栄は死んだそうですが、弟の田横が斉兵を集めて各地で反乱し、項王もてこずって足止め状態になっている、とのことです。」
「その間に、東進せよと申すのか。」
「はい、この様子では、項王は三秦に援軍を送れぬと読みました。」
「なるほど、今が絶好の機会なのじゃな。」
「兵士達も故郷に帰れるとなれば、その働きは、三倍にも四倍にもなりまする。東進の御命令をお出し下さいませ。」
「よしわかった。全軍に東進を命じよう。」

 こうして韓信は東進を開始した。
劉邦が漢中に入って、四か月後のことであった
まず、漢の出口を塞ぐ上秦の散関(さんかん)に押し寄せた。散関(さんかん)は章鄲(しょうかん:擁王)の弟・章平が守っている要害である。
 韓信はこの日のために既に腕達者の武者を農民や脱走兵に化けさせて、ひそかに城内に送り込んでいたのである。
散関(さんかん)の兵は突然の漢軍の出現に、天から降って来たのかと驚いた。
送り込まれていた武者達が、この時とばかり門番に襲いかかった。そして城門を開けたのである。
これほどの要害が二日で落城してしまったのである。
 このような事は今までに例がなかった

韓信はすぐさま章鄲(しょうかんの居城:廃丘城へせまった。
章鄲(しょうかんの居城:廃丘城は四方を山に囲まれ、堀は白水の河より水をひいていた。
『ふむう、これはなかなか堅固な城だな。まともに攻めては、何か月もかかる。そうなれば司馬欣(しばきん)や董えい(擢王てきおう)の援軍がやってくる。
 よし、周りの地形をみてみよう。』

「ほう。白水川の水嵩(みずかさ)は高いのう。」
いまは、洪水の季節でございますから。」
「よし、この水を兵として使おう。
よし、この上流の水をせき止めよ。兵士の兵糧袋に砂をつめて堰(せき:ダム)を作るのだ。」
それから、下流にも同じように堰(せき:ダム)を作れ。」
「はっ。」
まず、白水川の上流が、せき止められた。そして
次は、下流にも堰(せき)が作られた。

白水は三日で堰(せき)をあふれんばかりになった。
この時、堰(せき)は切って落とされた。
 大量の水が どっと流れ出し、下流の堰(せき)で くい止められると水はあふれ出し、洪水となった。
 廃丘城は水びたしとなってしまったのである。これを 韓信の、
砂嚢(さのう)の計」という。

章鄲(しょうかん)
は わずかの兵をつれて 挑林へ逃げたが、しかし、漢軍も追撃を受け… … 自決して果てたのである。

 次に韓信は、下秦の高奴を攻めた。
董えい(擢王てきおう)はたまらず降伏した。

 続いて中秦のれき陽を攻めた。
韓信の意表を突く戦法に、司馬欣もたまらず降伏した

 韓信はあっという間に三秦を平定し、
劉邦を咸陽に迎え入れたのである。

その速さに項羽は援軍を送る間もなかったのである。
劉邦は韓信を得て、天下取りに動き出したのである


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2023年9月26日 (火)

横山光輝「史記」は読みごたえのある漫画。第1話:司馬遷(しばせん)の受けた極刑。

 紀元前数百年~漢の時代までを司馬遷が歴史書として竹簡に書いています。それを元に横山光輝が劇画化したのが「史記」全11巻です。私の愛読書の1つです。今日から順次、ご紹介していこうと思います。興味を持たれましたら是非、図書館に足を運ばれて漫画「史記」横山光輝 を借りて読んでみて下さい。

第1話 司馬遷(しばせん)
 紀元前、漢の時代に屈辱に耐えながら中国歴史を書きつづけた人物がいた。
  司馬遷である。

司馬遷の生年月日は諸説あり定かでない。
通説では景帝の中元五年(前145)に洛陽の名山竜門山(中国三大石窟の1つとして有名)の西南夏陽(かよう)で生まれたという。

父の司馬談(しばだん)は当時一流の学者であったが・・・
 その生計は農耕でたてていた。  

えっ、父上が太史公(たいしこう)に任命されたのですか!
「そうじゃ、禄は六百石(せき)じゃが立派な官職じゃ。」
太史公ってどのような役務ですか?
「太史公というのは歴史をついくったり、国家の祭祀をとりしまる仕事じゃ。簡単にいえば神官じゃ。
遷(せん)よ、わが家はいまでこそ没落しているが、周王朝からの名家である。「司馬」という姓もその時の官名からとったものじゃ。
その司馬の姓もわしの台で消えるかと心配していたが、やっとわが家にも日が当たった。
その役目のため、これより茂陵(もりょう)で生活する。」
茂陵(もりょう)
「長安から少し離れたところにある。武帝は、今そこに自分の死後のための墓陵を造っている。そのため大勢の人々が集まって大きな町となっている。そこに参るのじゃ。
遷よ、その方も茂陵に移ったら勉学に励み、司馬家の名を絶やさぬよう努力してくれ。」
はい。
 こうして司馬家は茂陵(もりょう) へ向かった。
  この時、遷は六歳であった
 茂陵(もりょう) 、そこは活気に満ちた新都市であった。
司馬遷はここに来てから父を師として猛勉強を始めた。
 十歳で子分(古い文字の歴史書)を暗誦したと記していることから天才少年だったのだろう。

「遷よ、おまえはよく頑張った。これからはわしの学んだ学問だけでなく新しい学問を身に付けよ」
新しい学問?
儒学じゃ。儒学は孔子の始めた学問じゃが、秦の始皇帝によって排斥され日の目を見なかった。今、見直され大変な勢いで広まっている。
まず、董仲舒先生の門下生となれ。
董仲舒先生は天下の大学者として陛下の相談役でもある。
それから
五経博士のもとで学べ。博士のもとで学んだ者は官僚の道が約束されている。
五経とは、「易」「書」「詩」「礼」「春秋」のこと。武帝は儒学を発展させるため五経博士の感触を置いたのである
司馬遷は尊敬する父の言葉にしたがい、董仲舒に学び、孔安国博士に学んだ。
司馬遷の少年時代は学問一筋であった。

「遷よ、おまえはいくつになった・・・?」
二十歳になりました。
「おまえは良く学んだ。評判もいい。わしは良い後継者ができたと内心喜んでいる。
そこで、わしはおまえに旅に出てもらいたいと思っている。」
えっ!?
「お前が身に着けた学問は文字だけの学問じゃ。それだけでは地方の風習や気質などその土地の匂いというものが伝わってこぬ。だが、
旅をして見ることは百の文字よりも本当の姿をなまなましくとらえることが出来る。太史公という仕事はそういったことも知っていたほうがよい。」
父上、本当に行かせてくださるのですか・・・?」
「我が家は金持ちではない。しかしおまえの旅費くらいはなんとか捻出できる。」
行かせてください。私は歴史を学んで偉大な個人の業績をしのんでみたいとおもっていたのです。」 
「よし、では旅をして世間を見て学び、それを役立てて司馬家の名をあげてくれ。」

 こうして司馬遷は二十歳にして中国大陸漫遊の旅に出た。 
名峰、廬山(ろざん)に登り、
孔子廟(びょう)を訪れ、
旺盛な好奇心で各地を見て回った。 行く先々で土地の人と語り、歴史上の人物のエピソードや人情風俗を知った。司馬遷は二年間の旅を終えて長安に引き返した。
 翌年、司馬遷は郎中(侍従見習い)に任官した。身分は低かったが、官僚として出世していく第一歩であった。ところが司馬遷は出世の機会に恵まれなかった。
十年を…郎中のままで…過ごした…。これは異例であった。
元鼎(げんてい)年(前111)司馬遷は三十五歳になっていた。
お召しにございますか・・・
「おう、そちらに大役が下ったぞ!!
司馬遷、去年広東の南越国(四川雲南地方)が謀反を起こしたのはよく知っているな。
わが遠征軍が南越国を滅ぼした。そのおかげで周りの蛮族までが漢に服従を誓った。しかし、まだまだ油断はならぬ。そこでそちは宣撫と視察をかねて南越国へ参れ。」
ははーッ
司馬遷は三十五歳になって初めての大役であった。行く先が蛮地であろうとその喜びは大きかった。

 漢王朝は劉邦が楚の項羽を倒し、紀元前202年に興した王朝である。それからすでに七代目、武帝の時代がもっとも繁栄した時代であった。劉邦が漢王朝を興した頃はたびたび匈奴の侵略を受けて頭を痛めていた。そこで、劉邦は匈奴に贈物をしたり、娘を嫁がせたりして親和政策をとり、国内の政治に力をいれた。代々の皇帝も、それを見習っていたのである。
しかし、七代皇帝:武帝の頃には、国が富み国力が増大していた。武帝は、このような政策が我慢ならず匈奴征伐を開始し、ゴビ砂漠の奥へ追い込んだのである。このため匈奴は和平を求めてきたのである。

「みなの者、漢朝はいまだかつてない繁栄をとげている。朕(ちん)はこの機会に封禅(ほうぜん)の儀式を行おうと思う。
昔より封禅(ほうぜん)の儀式の話は伝わっているが、これを行ったのは、秦の始皇帝一人。だが今、朕の威光は始皇帝をしのぐ。匈奴も朕の威光を恐れゴビ砂漠のかなたへ身を潜めた。朕こそ封禅(ほうぜん)の儀式 を行うにふさわしい。」
「ははーっ。」
「まさにその通りにございます。」
では、すべての者は総力を挙げて準備を整えよ。」
「ははーっ。」

司馬談どの、司馬談どの・・・陛下のいわれた封禅(ほうぜん)の儀式とはどのようなものじゃ、教えて下され。
「この封禅(ほうぜん)の思想は、春秋戦国時代にできたものにございます。しかしこれを行ったのは秦の始皇帝一人、しかも始皇帝はその方法を秘密にしたため誰も知りませぬ。 
封禅(ほうぜん)とは、天命を受けて天下の主となった天子がその山に登ると仙人になるといわれる泰山の山頂に壇(だん)を築いて点を祭ることを「封(ほう)」といい、その麓の小山:梁父の土地を平らにして地を祭ることを「禅(ぜん)」と言います。
国の繁栄を報告し、これがいつまでも続くことを祈る儀式で、これを行った皇帝こそが天命を受けた本当の天子であり、万民を支配する資格があるというのです。」 
それならば大変な準備が必要であろうな?
「はい、いろんな珍しい動物を集めて、天地の神への生贄(いけにえ)としなければなりませんし、準備は大変でございます。」
司馬談どの、われわれにも落ち度のないよう教えてくだされよ。
しかし、これも陛下の威光じゃ。いままでの皇帝はそこまで出来なかったからのう。
それにしてもよい時代に生まれたものじゃ。封禅(ほうぜん)の儀式をこの目で見られるとは・・・。」

 その日から司馬談も封禅(ほうぜん)について猛勉強を始めた。
こうして準備が整うと、武帝は文武百官を引き連れて泰山へ向かった。

 首都・長安
おい、司馬遷ではないか・・・?」
「おっ、陳達」
おまえ、こんなところで何をうろうろしている。」
「今、西南の旅から帰って来たばかりだ。これから陛下にご報告に行こうと思う。」
陛下はもうここにおられぬ。泰山へ向かわれた。
「えっ!?」
「それよりもおまえの父上は起き上がれぬほど重病だぞ。」
「えっ!!」
「明日も知れぬ命だという。早く帰ってやれ!」
『知れなかった・・・』

父上・・・!!
あっ、お父様!」と娘、、
娘よ、父上の御容態はどうなのじゃ?
それが… …
「誰じゃ…!?」と父、、
父上、遷(せん)にございます。いま役目を果たして帰ってまいりました。
「おお、遷(せん)か。死ぬ前に会えるとは神のおぼしめしかもしれぬな。」
父上、なにを弱気なことをおおせられます
「いやいや、自分の体じゃ、なんとなくわかる。 わしは今度の歴史的な大祭をなんとか成功させたいと思い、夜も寝ずに頑張った。それがこたえたようじゃ。このような歴史的な儀式がこの目で見られなかったのは無念じゃ。
それから、もう一つ心残りがある。名家としての司馬家がわしの代で消えてしまうのではないかという心配じゃ。
遷よ、おまえが今まで郎中でいるのは運が無かったからじゃ。わしが死んだら有力者に働きかけ、なんとか太史公の役職を継いでくれ。」
わかりました。かならずや太史公になって家を継ぎます。
「この国では「孝」についていろんな考えがある。一般的には、子を産み祖先の血を後世に残すことだとされている。…だが、わしは孝経(こうきょう)の一説の「孝」をお前に求める。
孝経(こうきょう)では『名を後世に挙げて、もって父母の名を顕(あらわ)す。これ孝の大なるものなり」と説いている。」
はい、存じておりまする
「わが祖先は州の太史でいろいろな記録を記して来た。わしはそれをまねて歴史を記している。周王朝のはじめ周公が先祖の功業を伝えたからこそ天下の人々が周公をほめたたえるのじゃ。しかし、この伝統が衰え、五百年後に孔子が「春秋」をあらわし復興なされた。しかしその後、名君・賢人・忠臣が出ているのにだれがその記録を残している?
そういう記録は残しておくものじゃ。それを読んだ人達は自分をふりかえり、名君・賢人の生き方を教訓とするじゃろう。後世の人々に役立つと思って書き続けた…。だが、それも完成をみぬ。この仕事、お前の手で完成させてもらいたいのじゃ。」
わかりました。そのお仕事かならずや完成してみせませる。
「その言葉を聞いて安心した。偉大な仕事を残して司馬家の名を残してくれ…。それが最大の孝であることを忘れるな… …
わしは…よい…息子を…持って幸せ…であった…」
「お父上!」
「おじいさまーー!」
だが、談は安心したように息をひきとっていた。
「おおお… …」司馬遷は尊敬する父の死に号泣した。この父の遺言が司馬遷に大きな影響を与えた。

元封三年(前108)、有力者への働きかけが成功し司馬遷は太史公に任命された。
「司馬遷よ、わが国は今まで秦の暦をそのまま使っていたが、封禅の儀式が終わった今、新しい暦を使用することにする。そちは早急にとりかかれ。
暦というものは後世にまで影響を及ぼす。よくよく研究のうえ新しい暦を作れ。天文官は何人使うても良いぞ」。

これは大変な大事業だ。歴史書を完成させるのはしばらく延期せねばなるまい。』

 天文官を集めて作業にかかった。
秦は六の数を吉としたが、新しい暦は五の数を吉とした。それまで冬十月を元旦としていたのを春正月を年の初めとすると定めた。
太初元年(前104年)にこの暦は完成したので太初暦といわれた。陰暦のことである。この暦は清王朝が滅亡する1910年代まで2千年の間 使用された。日本をはじめアジア諸国でも使用した。

 大事業をなしとげた司馬遷はやっと歴史書作りにとりくめた。
天漢二年(前99年)平穏無事であった司馬遷の身に突如不幸がおとずれた。

何っ!匈奴の和平の申し入れは偽りだったと申すのか!?
「はい。匈奴の単干(たんう)王はわれ等が使者を捕らえ、貢物をことごとく奪ったそうにございます。」
ぬうう、許せぬ。和平の話は匈奴のほうからもちかけてきた話ではないか
「はい。」
ぬうっ、朕を甘く見おって!許せぬ!李広利(りこうり)将軍と騎都尉(きとい)の李陵(りりょう)をすぐ、これへ呼べ!!

「李広利にございます。」
匈奴の単干(たんう)が朕をあざむいた。
そちは三万騎の精鋭をひきつれ匈奴を討て!!
「わかりました。かならずや単干(たんう)を捕らえてまいります。」
おう、頼もしい言葉よ。朕にさからうとどうなるか、よく見せてやれ。」
「ははっー」
李広利(りこうり)将軍は武帝の寵姫(ちょうき)李夫人の兄であった。武帝は李広利(りこうり)に大きな手柄を立てさせようと思ったのである。

 つづいて騎都尉(きとい)李陵(りりょう)が入ってきた。
李陵(りりょう)にございます」。
「おう。 その方には李広利(りこうり)将軍の物資輸送の役を命ずる。」
陛下 私の部下は楚国出身の猛者ぞろいでございます。できますれば私が指揮をとって戦いとうございます。
「李広利(りこうり)の下につくのはいやだと申すのか!?」
いえ、そうではございませぬ。それがしが別動隊として動けば、匈奴は総力を李広利(りこうり)将軍に向けられませぬ。
「ふうむ。しかし別の一隊を出す余裕はない。」
いま、私の部下五千で充分でございます。
「なに、たったの五千で!?」
「はい、匈奴の土地をわが庭のごとく闊歩いたし、匈奴めらを蹴散らせてまいります」
「ふうむ、頼もしい事を申すのう」
「それも一策かもしれぬ… …許そう」
「ははっー」

こうして、李広利(りこうり)将軍 は三万の精鋭をひきいて出陣した。また、
李陵も五千の部下を引き連れて別動隊として出陣した。ところが、
李広利(りこうり)将軍 は匈奴と出くわさず、
別動隊の李陵軍が竣稽山(しゅんけいざん)で匈奴軍三万と遭遇した。
匈奴軍は漢軍が少数なので真っ直ぐ突っ込んできた。李陵軍は千挺の弩弓(どきゅう)で応戦した。
いかん!退けっ退けっ!!
いまだ、追撃しろ!!
李陵軍はこの初戦で数千の匈奴を打ち取った。
「陳歩楽よ、この戦果を陛下にお伝えせよ。」
はっ。
陳歩楽はいそいで長安へ馬を飛ばした。

「なにっ、李陵が数千の匈奴を打ち取ったと!!」
はい、李陵さまはじめ部下は死を恐れ猛者ぞろいで匈奴をのんでかかっておりまする。」
「では李陵は匈奴に漢の威武を見せつけたのじゃな。」
はい、たっぷりと!
「みなの者、聞いたであろう。素晴らしい知らせじゃ」
「さすが李陵どのでござる」
「遠路より戦勝の第一報を届けた功により、そなたを郎(侍従)にとりたてよう」
ははーっ。
「みなの者、今宵は戦勝の祝宴じゃ!!」

 一方、匈奴はこの手痛い打撃に驚き、兵力を八万に増やし、李陵軍に襲いかかった。だが、李陵は山岳地帯をうまく利用して戦い…、また三千の首を取った
この戦いの報告は、逐一、都へ報告された。その報告を聞くたびに宮廷には歓声があがった。だが、
八万と五千の兵の戦いである、李陵軍は五十万本の矢をすべて使い果たしてしまった。やむなく、勇猛な李陵軍は八万の軍勢の中へ切り込んでいった。だが、その結果は惨たるものであった。

「よいか、われら五千は匈奴の心胆を寒からしめるに充分の戦いをした。しかし、武器が無くてはこれ以上戦えぬ。あとは無事に生きて帰ることじゃ。
まとまって動くと敵に気取られる。各人バラバラになって国に帰れ。誰か生きて陛下にご報告せよ。」

こうして生き残った兵士は闇にまぎれてバラバラに散った。李陵に従う勇士は十余人であった。しかし、李陵は数千の追っ手に包囲され、ついに匈奴に降った。
無事、漢領に逃げ込んだ者は四百余人であった

「なにっ、李陵が匈奴に降ったと!」
「はい、逃げ帰って来た兵士がそう報告しております。」
「陳歩楽!!」
「は、はい。」
「陳歩楽、その方は朕に何と申した!李陵はじめ部下は死を恐れぬ猛者であると申したな。その李陵は切り死にもしないで匈奴に降ったわ!おまえの言った猛者とはどういう意味か説明せい!!」
「そ、それは…」
武骨な陳歩楽は武帝の激怒にいいわけもならず自決した
武帝は寵姫の兄:李広利(りこうり) が三万の精鋭を引き連れながら、何の手柄も立てないのにいらだっていた。こうなると今まで李陵の手柄に歓声を上げていた宮廷の空気がガラリと変わり、みんなが李陵の悪口を言いだした。

「司馬遷よ、そちは李陵のことをどう思う。ただ功をあせった猪武者か…」
「わたしは猪武者とは思いませぬ。わずか五千で八万の敵を相手にし、数千の匈奴を打ち取ったのです。矢が尽きた時、部下はわれ先にと切り死にしたと聞いております。かくも部下に命を惜しまぬ働きをさせる武将が今までおりましたでしょうか!?
今、危険のない者がこの時ぞとばかり有ること無いこと悪口を申すのはまことに可哀想にございます。一万の援軍でもあれば李陵は敵を蹴散らしたと思いまする。」
なにい!? そちは朕が援軍を送らなかったことを責めるのか!
「いいえ、李陵は立派な名将で敵に降ったのは、隙を見て逃げるつもりではなかったかと…」
黙れ!黙れ! 別動隊と言いだしたのは李陵だ。そちは李広利将軍をざん訴するつもりか!それとも何か含むところがあるのか! 目ざわりじゃ!
こやつを獄へつなげ!

 司馬遷は思わぬことで獄中の人となってしまった。獄中は地獄だった。牢番の気分しだいで鞭がとび、自尊心を打ち砕いた。野卑な牢番の顔色をうかがって暮らす屈辱の日々であった。

「司馬遷、その方の刑が決定した。
皇帝誣告罪により死罪じゃ。」
「なぜです。わたしは陛下のご下問に正直に答えただけです。」
「黙れっ!そちは李広利将軍をおとしいれるためにわざと事実をねじまげて答えた。だが、
死罪を免れる法がこの国には二つある。
一つは五十万銭を国に納めること。
もう一つは宮刑(きゅうけい=腐刑(ふけい))を受けることじゃ。刑の執行は十日後じゃ、それまでによく考えておくのじゃ。」
『死刑… 李陵を弁護しただけで死刑… …
五十万銭といえば大金…わたしの力で作れる金額ではない… 死ぬのは恐れぬが、それでは私の代で司馬家を失う。
父上、教えてください。わたしはどうすればいいのです。』

「牢番どの 牢番どの!!」
「なんだ、どうした?」
「廷尉(司法長官)に宮刑(腐刑(ふけい))を受けるとお伝えくだされ。」
「へえ~、小便をたれ流しながら生きていくというのか。文官てえのは意気地のねえもんだ。恥をさらしてでも生きていたいのかのう。」
 司馬遷は考えあぐねた末、「孝」の道を選んだ。生きて父の遺言の歴史書を完成させようと決心したのである。
宮刑(きゅうけい)とは男根を切りとり宦官(かんがん)になることである
司馬遷 この時四十八歳であった。
下腹部と股の上部をきつく紐(ひも)でしめられた。
「治るまで地獄の苦しみを味わうぞ。ひと思いに死ぬほうが楽だぞ。それでもよいのか。」
「決心のうえにございます。」
「よし。」
男根・陰嚢(いんのう)は、ともに切り落とされ、その尿道には栓(せん)がつめられた。
それから2,3時間、執刀者に抱えられ歩きまわり、その後、横になることを許された。
手術後三日間は飲水も許されず、渇きと傷の痛みのため司馬遷はのたうちまわった。
三日後に尿道に挿入された栓が抜かれた。
 この時、噴水のように尿が出た。
そして、傷は約百日で治った。手術が手荒いが、死んだ者はほとんどいなかったという。

「のう、司馬遷はどうしている…」
「はい、宮刑 を受けて生きながらえておりまする。」
武帝はわずかなことで司馬遷を極刑にしたことを気にしているようであった
「いかがでございましょう、新しい官職を作り、それに任命いたしましては?
文書をつかさどり大臣の上奏文などを取り次ぐ役目で、宦官と同じ仕事でございまするが、肩書をつけまする。
中書令という肩書きで役目につけてはいかがでございましょう。」
「おう、よきにはからえ!」

 司馬遷は、再び 官職についた。それを受けたのは、宮廷の書簡を自由に見られるからである。司馬遷は歴史書を完成させるために利用できるものは全て利用しようと考えたのである。
司馬遷は何かにとりつかれたように太史公書(史記)をつづった。極刑にたいする憤りと残り少ない自分の人生の全てを史記にかけたのである。
才能ある人物があまりに世にいれられないことを嘆き、天はなにもわかってくださらなぬ憤りをこめて記した。

 史記は完成した。歴代王朝から漢初まで百三十編におさめられた

「娘よ、わが命など泰山に比べれば鴻毛(こうもう:雁の羽毛)よりも軽い。
それがなぜ生き恥をさらしてまで生きてきたかといえば、この歴史書を完成させるためであった。だがのう、
この歴史書は陛下の逆鱗にふれる箇所もあろう。
それゆえ陛下の存命中に人目にふれさせてはならぬ。目にとまれば一族まで禍いが及ぶ恐れもある。
この正本は亡失を防ぐために名山に納め、副本はここに置いてくれ。
 わしは、この仕事を後世の成人君主がどう評価してくれるかに賭けた。」
「はい。」

『ふーっ、屈辱の十数年であった… …。だが、これで思い残すことはない。
父上、ご遺言通り歴史書は完成いたしました。あとは公正の評価を待つだけでございます。』

 史記は単なる記録ではなく、登場する人物に血を通わせ、短評までくわえている。
それがために大歴史小説であるといわれるのである。しかし、

後世にまでその書を残したということは、立派に親に「孝」を果たしたことになる。
司馬遷の死んだ年代は、武帝の死の前後であろうと言われているが定かではない。

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2023年9月24日 (日)

小山和智・古志隆彦様、澄子母さんが亡くなって既に五週間以上が経過しました。いつ頃、清武にお越し頂けるのでしょうか?

 清子姉さんのお体の調子は、その後いかがでしょうか?
過日、澄子母さんの遺品を引き上げにドエルへまかり越したおりに、喪主が保持すべき遺影(A3写真)とドエルでの数々の作品と一緒に、澄子母さん愛用の手押し車(車いす)を、ドエル3階の部屋に残して置きました。清子姉さんの介護のために活用して下さるなら幸いです。
澄子母さんが亡くなってから既に6週間(40日)が経過していますが、
【1】和智様もしくは隆彦兄様は、いつ頃、豊栄町清武を訪れてゆっくりと今後のことをお話しいただけるのでしょうか?
【2】当方では、石屋さんに頼んで、小山家墓誌の方へ、亡くなった年月日などを墓誌に既に彫り込んで頂いておりますが、
納骨に関しては、和智様や隆彦様を差し置いて(墓守の私が)やってしまう訳にはまいりません。お忙しい毎日でしょうが、是非ともごゆっくりとお話しに来て頂けるのをお待ちしています。
【3】先日も書きました通り、玄関正面に「忌中」を掲げ 今も、精進料理と清掃・草抜き及び、生花を絶やさぬように努めております。

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2023年9月 7日 (木)

小山和智様へ「澄子の通帳」の件(追記)

  小山和智様へ。「澄子の通帳」の件
小山澄子の保持していた通帳は、しまなみ信金以外に「郵便貯金」や、「農協」などに普通預金や定額預金としてもあったはずです。哲雄父さん名義の通帳も大切に保管していたはずでした、こまめでしっかりした母さんでしたから。

【1】 特に、福田宏が亡くなった後の遺産相続で澄子が得た遺産相続(約2000万円)の記録を確認する必要があります。澄子は相続直後に、大竹陽子と節子おばさんとに各々100万円を感謝の意味を込めて贈っていますし、福田家遺産を引継いだ次の年、豊栄町から科せられた相続税は200万円ぐらいだった、(その年度の高額所得者として、各種免税措置は受けられなかった)と聞いています。従って400万円を差し引いた1600万円の定期預金の証書がどこかにあったはずです。


【2】 小山家の墓の総費用は400~450万円かかったはずです。その内の150万円は小山和智様より、150万円は小山芳範様から援助を受けたのでした。この他にも、屋根瓦の葺き替えや本宅のふすま(7枚)の新規の設定など、かなりの出費をしています。
この履歴が解る古い通帳がどこかに残されていたはずです、和智さんが預かっていないなら、それらは古志清子姉さんか隆彦さんが保持されているはずです。

【3】ドエルに入居以降の12年間に関して、しまなみ信金の通帳には、出費の一部しか記録されていません。

清子姉さんからは、ドエル関係で払っていた毎月の経費は21~22万円だったと聞いています。(ドエル入居8年間は採算が合うが、8年を超えると、段々と経費が嵩み、赤字になってくるのです、との説明を清子姉さんから聞かされていました)。
澄子母さんは12年間ドエルにお世話になりました。そのドエル関係総出費は、22万x12x12=3,168万円と見積もられます。

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2023年9月 2日 (土)

小山和智様へ、レターパックにて送られて来た資料の件

 2023年9月1日、レターパックにて大山宏宛てに、以下の文章が送られて来ました。
  大山宏様、
 遅くなりましたが澄子母さんの葬儀関係の会計報告(8月30日現在)をお送りします。
葬儀の経費は 831,932円で確定してますが、東広島市の「葬祭費」や年金関係の清算(票の左下の赤い数字の部分)がまだ終わっていません。
 お役人仕事なので、確定は10月になるかもしれません。いずれにせよ、澄子母さんの預金通帳(しまなみ信用金庫)口座に300万円くらい残る計算で、それを清子姉さんと兄さんと私の3人で仲良く分けるように、澄子母さんから言われています
 なお、蓮教寺から「御香資」1万円と「忌中見舞い」5千円をいただいています。前者についてはお布施(導師料)を1万円増額しましたから、お返しは不要と思いますが、判断は兄さんに任せます
 また、欄外の《参考》の部分はあくまで参考です。兄さんの判断に任せます
香林坊と蓮教寺への「永代経懇志」も兄さんに任せます(不要と思われるなら、それでもいいです)
 「火葬証明書」(埋葬許可証)を置いてくるのを忘れました。葬儀の写真も一緒に送ります。
 2023年8月31日  和智

 レターパックにて送られて来た手書きの文章は以上ですが、幾つか、問題(認識違い)がございます。先ず最初に、
【1】通夜と本葬の両方の喪主は清子姉さんで執り行われ、和智さんは(喪主代行の隆彦兄さんより)依頼されて葬儀事務処理一切を取り仕切られた事(和智さんは清子姉さんの代行業務執行者である事)。それ故、

【2】上記のような会計報告は先ず何はさておき隆彦兄さんに報告・連絡・相談され、その承認の下に、大山宏(小山家墓地の管理人)に報告されるべきである事。

【3】(しまなみ信金)口座に残った約300万円を仲良く三人で分けるように澄子母さんから言われています、とありますが、長男であり小山哲雄から不動産関係のみを相続しただけの大山宏は、「動産関係の話」は、一言とも澄子母さんから聞かされていません
 口約束以外の明確な証拠(例えば、父哲雄が死亡した前後以降の預金通帳)が残されているはずです。その通帳(少なくともドエル入居時以降の12年間の通帳)の提示が必要でしょう。
【4】蓮教寺からの「御香資(ごこうし)」と「忌中見舞(きちゅうみまい)」・・・お返しは不要と思いますが、判断は兄さんに任せます。隆彦兄さんから全面的に信頼を受けてやられたことですから、今更私大山宏に任せられても困ります。 また、高林坊と蓮教寺への「永代経懇志」に関しても、いきなり任せられても困ります
 実は先日(8月31日)、報恩講がシノエ谷(上)であり、寂定寺さんが来られて、澄子母さんの祭壇に(どこからお聞きになったか?)高林坊からの香典をあずかって来られたのですが、家族葬の趣旨を説明して(和智さんの御指示通り)受け取りをことわりました。寂定寺住職は納得されて、香林坊から預かってこられた香典は、お持ち帰りになられたのでした。
従って、香林坊・蓮教寺のどちらにも、永代経を収めることはありません。ご承知おきください(ご理解ください)

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